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系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

thinkeroidさんに教えてもらった。
話のフィールドは、一応は生物学ということになるけれど、広く根本に、一般の人間の思考、認知の方向という壮大な領域をかざしている。自身そこに生きる人間の、時間という枠組みに対する挑戦の一つでもある。
進化は、歴史は、科学の対象たりうるか?著者がいうところの「生物学哲学」というのは、科学哲学的なアプローチ、つまり今、科学が科学であるということの意味、科学が科学としてできること、その可能や制約性や条件などが何より科学者自身に常に反省的に反復されなければならない、ということの姿勢のあらわれと言えるのだろう。ダーウィン以来の強力なターム「進化」をどのように「科学的」に捉え、扱うか。例えば、とてもシンプルな話、過去にあったとされる進化、その現象自体は実験的に検証可能ではない、そのことの意味をどう推し進められるか。著者のいう「系統樹思考」は、進化心理学あるいは認知心理学的に、人間の生来の最たる思考的認知的スキーマと考えられる「分類思考」「本質思考」と相容れるところが、自体としてはほとんど無い、と考えられる。ところで、系統樹=「ツリー」自体は人間のイコンとして原始的ですらある、確認される存在だ。じゃあ科学の俎上において、そのような系統樹がどのように科学的可能性、有効性を持ちうるか。時間における、進化・歴史を記述するツールである、「ツリー」「ネットワーク」「ジャングル」は「よりベストな」「より適切である」時間的歴史的事象の説明を究めていこうとする。
実質的にテクニカルな部分はちょっと理解できないところがあったけれども、おおまかにはわかった。肝と考えられるのは「アブダクション」という推論の技術であり、それは諸データの有効性を保持したまま、仮説を類比的に検証することで、最適解の仮説、説明を導かんとする。で、より本質的な部分においては、「存在」への形而上的遡及、アプローチがスパイシーに効いてくるわけで、これは「種」ってあるの?可能なの?というような問いがあったり、いわば普遍論争の予感なのだけど、特にいわゆる自然科学からは蔑ろにされるであろうなという分野だし、さりとて無視できる部分ではない、というのは、「存在」を、それを問うことを回避することは、方法論的に矛盾を、悪い意味での曖昧さを残すように思えるから。何となれば、データがデータであることの意味、データに還元できない「存在の本質」の意味は永続的に試験にかけられなければならないだろうから。