http://d.hatena.ne.jp/hejihogu/20080406/p4
基本的にアクセス可能性自体には何の担保もないってことで、コントロール不可ってのはまったく同意だなあって思いました。これは責任とか期待とかの次元じゃなくて、ウェブってまずそういうものだ、という認識。で、その上でどうやってコミュニケーションしていくか?って話が出てくる。モヒカン、ムラといった規定がそこで生きたりする。
とりあえずブログもブックマーク(コメント)もツールという意味では同じ。原理的に文字メディアとしてある。そこから「読まれる」可能性の次元の広大な領野が開ける。「誰が書くことで何が違うだろう?」、これは反語でしょうか、どうでしょうか。「強度」といった概念がある。これは示唆的であるけれど、ただの感情の過剰な投影に過ぎないかもしれない。何が強度を支えるかということを指摘することは難しい。というのは、その内容が何であるにしろ、純粋な(ウェブ)言説の価値というものを信じることが我々にはできないからです。でも、それで困ることはない、かなあ。
「読まれる」可能性に即応するのが、「リテラシー」という概念になるだろう、としてみる。色々な二項を我々は経験してきた。それら経験の知恵の結晶であり、形式であり、技術がそれであるでしょう。「匿名/顕名」はどうであるか。肩書きの有無は。作者、書き手という次元。公共性の有無、規範の有無、権威の有無などなど。「リテラシー」はおびえのような、疑心暗鬼のような、そういう風にいわゆるネガティブに感じる時もある。「リテラシー」の疲弊は、コミュニケーションの疲弊そのものかもしれない。でもまあこれは物の言い方。
ともあれ、ならば、ネットとリアルは、コミュニケーションにおいて量としては同じになる。質差はなく量的に還元される。これは仮定ですよ。そこでは情報量の違いだけが問題になってくる。でも受容する側のソフトの能力、処理能力はどうだろう。リアルとネットのコミュニケーションには何ら優劣はないのではないか。うまくいくときはうまくいくし、だめなときはだめだ。
あるいはネットこそがリアルを相対化した。ネットが始まって初めてリアルが生まれた。唯一のものだったリアルは決定的に相対化されるのを待っていた、というとロマンチックなきらいがあるけれど。メディアの歴史の終わりの始まり。進化、進歩は楽しいし寂しい。
と、ちょっと大風呂敷を広げかけたので、修正。ウェブコミュニケーションの振る舞いには型がある。それはその志向性によって異なる。ウェブで日ごろの鬱憤をただただ晴らしたい見知らぬ人とコミュニケーションすることはできますか。議論の可能性。意見交換の可能性。日常会話の可能性。馴れ合いの可能性。おおまかに志向性の違いがある中で、それでもどこかで適合がないとよりよいコミュニケーションはできないし、疲れるでしょう。勿論個々において感情に左右されることはあるだろう。ブレが出てくることもある。変化はある。型は選べるのだろうか?コミュニケーションにおいて共有されるのだろうか?これは理想に過ぎないだろうか。間接的かもしれないが、個体認識できたら、ああこの人はこういう人だなあなんてつきあいやすくなったり。それでもああこの人にはこんな一面があったのか、なんて。よくある話。そうそう、どこでも、最近ならついったーとかでもよくやっちゃう、ああちょっと配慮ないこと言っちゃった、とか、誰かを傷つけちゃったかも、鬱陶しがられてるかも、とか。でも、違う時に何か反応もらったら嬉しかったりして、大丈夫だったかななんて勝手に安心したり。これはただのネット依存コミュニケーション依存だろうか。よくわかりません。ちょっと例としては違うか。こんなのはどうか。https://twitter.com/IZUMI162i6/statuses/783767840 IZUMIさんのtwitterから。http://ascii.jp/elem/000/000/121/121138/index-2.html とりあえずニセ科学云々はおいておいて、議論の結論だけでなくてプロセスをROMする意味。これはリテラシーに関係あるんじゃなかろうか。
さてさて、精神論としての「リテラシーを高めよ」より、いわゆる技術に走るなら、スパムフィルターみたいなのの応用で、ネガティブコメントフィルターを作る、と。即応性をとるならブラウザにプログラムを組み込む。ネガティブコメントをオートで見えなくする。時間かけるなら、心理的な自我防衛、自我を鍛える。何を言われても傷つかない心の獲得、とか。どうしたらいいんだろう。慣れだろうか。そんなのに慣れるの嫌かも。スルー力なんて概念があったなあ。じゃあ技術としての「リテラシー」か。広い意味でのリテラシー、より上手に読むこと感じること思うこと、などなど。それでもしんどい時はやはりしんどいですね。