タタモーターズ!何で食いつかないの?何で何で?なんでなんでなんで?すきでしょ?こういうの、といういかにも見透かしてますよというアプローチを当のタタ自体が発してる。だから。
ベリキューのオープニングは懐かしテイスト、オーソドックスなあれ。それはハロプロだけのものでもないオーソドックスなのか?まのえりーな。今週の分は大体見た。みやびちゃんをみやびこちゃんと呼びたい。椎名桜子とか、えーと他には、他には思いつかなかった。みやびこと呼ぶとどうにも語感が気持ちいい。発音してて気持ちいい。誰か実在する人間をみやびことちょっとばかり日常的に異質な名前で呼ぶ、ということは、本人みやびこにとっては嬉しくない、更にはどこかしら馬鹿にされていると彼女怒るかもしれない。僕は馬鹿にしているのかもしれない。でも、ベリキューのみやびちゃん、ちょっと天然さんのおバカさんぽく振舞っていて、それはベリキュー以外でも割りとそうなのだろうと想像するけれど、でもだからそれら行為ゆえ、それら行為によってこそ彼女を馬鹿にする、というわけでもないのだ、と強調したい。馬鹿にすることと例えば愛でることは、遠いのか近いのかわからない。一般には遠いと感じられているのではないだろうか。人を馬鹿にした行為を愛でているといって正当化しても、それは受け入れられないだろう、受け入れられなくてもしょうがないだろう。つまりつまり、これは別にみやびこちゃんに限ることではない、というおはなしなのだ。僕は全人類を馬鹿にしてる、全個人を馬鹿にしてる、全ての物事を馬鹿にしてる、そう思う時がある。おおこう書いて発見したことは、何かごくごくありきたりの中2病のような観念だということだ。まあいい。で、馬鹿にしてる、これは解釈に過ぎない、といってみるにどこかいい訳じみる。そもそも馬鹿にしている、とは何だろう。価値を貶めることだろうか。なら違う。対象の内に矛盾を見ることだろうか。少し近いかも。ただの病気じみた自意識だろうか。それはやはり大いにある気がする。つまり、馬鹿にしている自分というものを過剰に対象化しているといった具合だ。馬鹿にすることと、尊敬することを同時にできたらいいな、と思う。ああ急に一般的日常的なおはなしになってしまった。馬鹿にすることを、尊敬することで相殺させる、あがなうなんて、なんて面倒くさいのだ。大体馬鹿にすることがマイナスの価値であるということがいけない。いけないったってそういうものなのだろう。
まいまいやりしゃこやまぁさやちなこや、たくさんたくさんが入り乱れて、そこで何が起こっているのか、内容は別にどうでもいいか、と思った。もう忘れた。美勇伝ちゃんのラストPVを見た。梨華ちゃんは前髪で小さなみつあみでやっぱり幼く見えた。美勇伝ちゃんとは幼い付き合いだったのかもしれない。幼い?アナクロフィルムがパタパタ回る。ぐるっと回ってまた同じ場所という。あーでもそれはただただ梨華ちゃんの幼さから導き出した恣意か。ただ、幼いつきあいのままお別れすることはともかく、きちんとお別れできるのは、ハロプロにおいてめずらしい。驚きと皮肉と。