児ポトラップ

人権侵害は別にしたくない。児童虐待もしたくない。でも、たくさんの構造に絡めとられる個人は、最悪、結果的にそれらの原因たりうる。もとより世界は暴力に満ちている。汎暴力世界。うんざりだファック、と叫んで誰かが傷ついた

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児童ポルノ単純所持と人権侵害、児童虐待の因果性、相関性の如何
定量的に計測判断可能なら、一つの強力な基準になりうるだろうけど、そんなこと無理。なので、近似的な代替手段か、あるいはこの契機自体を方法論的に回避か。何で僕の家の机の引き出し(3重の鍵かけてる)に入ってる児童ポルノそれに準じるポルノが具体的な誰か児童の人権を侵害したり虐待したりといった直接的な能動たりうるのだ、ばかばか!という主張。直接か間接か。目の密度がちぐはぐ(過密過疎のアンバランス)な網の目でたまたますくわれる人。
 
・私たちは児童ポルノを見たくないんです!単純に
と、まず言ってみたらどうか。でも「なので、単純所持は違法!」と続けると、アホかと突っ込まれるおそれがあるので誰も言わない。でもそれをどこかで言わないと、明言しないと卑怯という感じではある。趣味対趣味の次元がある。そのレベルでは「児童ポルノは俺の趣味」という主張者とハンディ無しのどつきあいになり、結果ノーコンテストになる。でもネクストステージで、世論さんは見たくないんです派につくだろうので、俺の趣味派が負ける。
 
・性的快楽のコントロール
の可不可。性の制度化の一様態としてのそれ。児童ポルノで性的に興奮するということ。性の管理。
 
・経済の倫理、交換の倫理
そんなもの原理的には無い。ので押し付けるしかない、押し付けざるを得ない。児童の人権侵害によってしかこのシステムで生きていけない人は想像されうると思う。どうする?
 
・全ての児童(の人権)を規範的に守ること
さすがに現実的でない。あらゆるレベルの規範の有効性自体が問われているし、旧的な規範はボロボロで不能だから。もっというと、「規範」という概念自体の自明性など原理的な部分のはなしかもしれないし。それでも、なら、まず自分の子ども、自分の周りの子どもをだけでも守れるかどうか。それはささやかかもしれないけれど、同時に極めて困難事でもある。
 
表現の自由、あと文化とか
正当化のゲームにおいて、これらはヒステリックに侵害されていく。でもどうしようもない、といえば身もふたもない。対象の解釈の恣意性。

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もっとポイントがあって、それらをも踏まえてキャンペーンしてるのだろうし。どこに力点置かれるのか。巨大な力学とか陰謀論とかはひとまず置いておく、というかわからない。
僕はいわゆる児童ポルノ「それ自体」が無くても困らないけれど、解釈次第では僕の趣味であるところのハロプロもアウトなところあるだろうから、傍観はしたくない。でもどうしていいかわからないので、とりあえず文字にした。
現行の自由とか権利、成文法などは、その直接的な現われにおいてはともかく、自体近代的な概念であるだろう。終わらない近代においては、そこで産出された近代的概念が常に問われ続ける、なんていうのは理念的にすぎるかなあ。コジェーヴとかフクヤマなどの有名な「終わり」についてはちゃんと知らない。ポストモダンなどとも関係してくるだろうけれど、歴史的近代の問題の「終わらなさ」ってのはあるだろうと思う。