りしゃこあいぼんを、その表情において重ねてしまって、具体的には口元の台形「д」だけれど、いよいよドキッとした。右目でりしゃこを左目であいぼんを見ている、などという事態はまず彼女たちにばれてはいけないことだ。ごめんなさい

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彼女たちに青春代理、というヲタ心。青春なんて嘘さ、寝ぼけた人が見間違えたのさ、と斜に構えながらも、それでも彼女たちの青春を手放しで拍手喝采すること、それは少なくとも彼女たちより幾らかにせよ多く公転を経験した者たちの領分にあるだろうし、だとすれば年を食った甲斐もあるというものだ、とまんざらでもない。物語を幻想を欺瞞を追認する、共犯者の意識や、瞬発的なエネルギー爆発と裏表にあるアドホックデカダンス、刹那への憧憬。
不都合なのは表層的な経済観念、経済道徳からの攻撃であるが?それらはうわっつらの性規範や小市民の良心というかたちをとり、外的であると同時に、強固に内的であるからやはり不都合である。つまり、自己規範に根ざしてしまっている、あるいは自分もその構造を不可避的に支えてしまっているという按配なのだ。自縄自縛。
ともあれこの点に関しては、いつになっても毎日青春です、と自分で言ってもいいんだけど、やはりどこか薄ら寒く、また徒に陳腐にしてしまうように思えるので、彼女たちの再現に托すといった、そんなバランスなのかもしれない。

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彼女たちは、絶対、自分ではないという、覚めた意識というか排他的な意識というか、シンパシーの感受の欠落だったりと言われえるかもしれないもの、見方が静かだがやはり確固としてある。これはただの量の問題として回収されるだろうか。例えば、彼女たちが喜んでいれば嬉しいし、涙していればとてつもなく悲しくなる。彼女たちが誰かに評価されれば嬉しいし、逆だったら腹立たしく思うこともある。でも、そういうある種の共有を内にしても、自分はそれらをダイレクトに発露することはない、行為としてそれらを為すことはない。
だからなのか、彼女たちを応援するという言い方にはピンと来ない。それは何というか、ヲタとしてその程度であるともいえるだろうし、それを否定する必要もないと思う。つうかヲタじゃないし、という自意識を披瀝する、などという言い方でメタ視を煙に巻いてみても、巻かれているのは自分である、と。
アイドルとヲタの非対称性は複層的だと思うが、だからこそか、ある部分でヲタは勝手でいることができる。

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女の子の物語を紡げなくなったのが辛いといえば辛い。そっちに復帰したいのだけど、できないぽい。そうだ、今日はリンリンの誕生日らしい。リンリンはジュンジュンと年齢の違いがわからない、というと、リンリンにもジュンジュンにも失礼である。バナナがジュンジュンだけど、バナナキャラというのはあまりにピンポイントだ。バナナ嫌いの祐ちゃんとその辺りで一絡みして欲しいけれど、そういうのもうあったのかしら。