見る人が何かに価値を与える、読むなど総じて「対象的」である場合、その見る人はたくさんのポイントからの眼差しをとることが可能であるとする(あるいは同様にたくさんの「見られる」がありうる、とする)。つまり、多層的複層的な価値付けの態度であり、多層的複層的な何か作品であり、それらの成立、それらの可能といった話。
まずもって批評理論、学問的なそれらなどと関係してくるだろうけれど、全てに介在的であると考えられる制約や制度などへのセンシティブや、対象に対象的である事に関する方法論の積極的な純化などがあったりして、想像に難くないのは、それらに関する知識は莫大なものであり、反対にそれらに対する受容する側の人間(その知性などの可能性)はとても限定的なものであるということ。ならば、そのような限定された状況において、方法論的にはどのような可能性があって、どういう営為を繰っていくかと、その際の強固な根本としての立脚点(形而上的点、学的点など)をどこかに想定するということは、例えば知恵としての有効性を発揮しうるかもしれない、と思う。対象に対象的であることの知識に網羅的にあたるにしても、およそそれが限界を据えられた人間的な営為であるなら、やはりそのような知恵の確保は尚有効であるだろう。
どれぐらい有効であるか計りかねるのだけど、といった前置きが傲慢になりそうなぐらい客観的には無意味な形而上的点(とあえて表現する)を僕は根本に据える。それは、ある対象はその対象以外のもの全てとイコールである、というテーゼなのだけれど、これは実際のところほとんど何も言っていないのと同じだという直観があるのにもかかわらず、うち捨てるどころかやはり尚僕の中で根本的でありうるのは、このテーゼが何かしらコスモロジーみたいなものに触れえているという直観も同時に持っているからなんだと思う。例えば、この命題を公理にして演繹的に定理を導くなどといったことが可能かどうかは全くわからないけれど、自分が何かに対象的である時にこのテーゼが陰影的にもせよ基底的に機能しているという、そのような佇まいが、ある種の安定的な効用を根本において発揮しているのではないか、ということ。そしてこのような地点から、既存の知識、それらの体系などへアプローチすることの意味を考えている。