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この辺の亜弥さん美貴さん珍道中におけるイメージをやっぱりどうしてもかわいく思い、写真を手に入れてしまわざるを得なくなり、ついに手に入れてしまった、というような一つの管理下にあるハロヲタ生、そしてそれであるところの自分自身のことを考えるのですが、それは考えるが無駄、というやつなのだろうか、とも考えます。
デジタルデータでは我慢できずに、写真という「モノ」が欲しい。写真は机の引き出しにしまいます。特別大事に保管するでもなし、それに、日がな眺め続けるというわけでもなし。ふと思い立ったら取り出して、とりとめなく一通り見つめ、やおらかたづけるというやりとりを行います。それら一連は静かな日常生活の範疇にあります。そこには何らかの心の動きがあるのかどうかと、今少し自分に探りを入れてみました。あるとしたら、それはほんのささいなものだろうなあ、と思った。写真を手に入れたら、その手に入れるということだけで即完結するものがあるのでしょうか。例えば、所有の問題だったり、フェティシズムとかだったりするのかもしれないが。
新しい写真は、それ以前の写真の上に重ねられます。机の引き出しがもうすぐ一杯になりそう。写真以外のこまごまとした物を整理し、ごまかしごまかし容量を確保して今に至るのです。ついに一杯になったら、またどこか別の場所にしまうことになるでしょう。だんだん底の方へと重ねられていく、「古い」彼女たちを光に当てる頻度は劇的に減っていきます。それでもゼロにはならない、本当に時々になりますが、手に取ることはある。写真というものはおっかない。経た時間を残酷に鮮やかに突きつけるから。それは写真の向こう側とこっち側の時間の両方に言えることです。写真はある一瞬の光の固定、時間の固定なんだろうけれど、その点で大うそつきで、トリッキーだ。それがこの媒体だけによる鮮やかな時間認識効果の妙味なのじゃないだろうか。つまるところ、写真は絶対的に止まっている「フリ」をしている。だから、写真以外の、それらを見るものと、そこに写された彼女たちこそが動いているように見えてくるのではないか、と。逆に、写真以外のものが絶対的に止まっていて、写真こそがずっと動いている、というイメージを浮かべてみると、何だかロマンチックな趣があります。でももうちょっと想像をおし進めてみるに、実際は、写真自体も、それを見るものも、写された彼女たちも、みんながみんな定まらない方向へばらばらに動いているのではないだろうか。これもやはりイメージに過ぎないけれど、比較的突飛ではないかもしれない。
現象としての彼女たちの変化のエネルギー量は手に余る。それはとても楽しい事態です。媒体はどんなものでも、本当の対象があることを想定するようで、それ故必然的に欠落が惜しまれる。当たり前だけれど、映像動画は映像動画で、写真は写真で、肉眼の捕捉は肉眼の捕捉だ。量的な差より、質的な差が決定的にあり、比較は単純にはできない。もとより光も空気も広義のメディアでいいんじゃなかろうか。そして、そんなメディアにおいて、どんどん膨らみ続ける彼女たちを、どんどんちぎっては食べちぎっては食べしている。これは普遍経済学です。じゃあ、ここにおいて、物語は何だろうと思った。それは、目くるめく写真の羅列、彼女たちの変化をいくら通していっても、どんなに光が過ぎて時間が経てものものがばらばらになっていっても、その時々ではずっといつも焦点が合わないで、ぼんやりとしか対象を見ることができなくて、それは別のあるものをずっと見ていることによるからなのだ、という焦点のズレ加減をこそ生であると正当化する、同一性の担保、同一性への仮託なのではないだろうか。ばらばらは寂しいがそれはどうしようもない、しょうがないことで、なので物語が欲される。
上の亜弥さん美貴さん珍道中におけるイメージはやっぱりどうしてもかわいいのですが、それは物語の結果だ。とても嬉しいこじつけです。