ウタダは「変えられないものを受け入れる力 そして受け入れられないものを変える力をちょうだいよ」と唄うが、それは強靭な意志が支配することを期待される「リスク(ゲーム)」の中でのことなので、わがままや願いの叫びなどとするよりは、ちょっとした皮肉で冗談であると考える方が適当なのではないか、と思った。だとしてもこの一節はそれ自体で美しい。ホモサピエンスの普遍を、ときめきを感じさせるからかもしれない。「リスク(ゲーム)」は勿論物凄くギリギリでしんどい。これも普遍ぽい。
何も無駄は無い、というテーゼはきっと、何もかもが無駄だというテーゼからの飛躍で、そこからこその飛躍であるべきではないだろうか。最強度な絶望を裏返すことに、一つの人間の自由の形式を見る。こういう風に観念にすがることで、サバイブする手もある、という実例。時に、偉いおばさんが言うに「この社会の生存は、どこまで贅沢に、豊かになれば気が済むのか」。その真意はついに読み取れないが、第三者によるその他二者の幸福を比較する尺度が、二者間におけるその相対尺度に比べ、質的にも量的にもまるで異質であるということをよもや無視した発言でも無いだろうとは補完的に想像できた。何となれば、二者はおろか一者たる自意識においても困難な所業であるのだから。時は過ぎ、たくさんの約束事「しあわせ」がぼこぼこと機能不全に陥っている。そこでなおもそれに寄り添おうとする、そしてついには破滅していく破滅の美学は、自意識においてなかなかのエクスタシー量を与えてくれるかもしれない。ミイラ取りがミイラに、幸せ探しがしあわせ怪獣に。星新一の「しあわせ怪獣(幸運の公式)」は少なくない不条理をその話のうちに湛えていたけれど、己から進んでしあわせ怪獣になるなんてお話は、それこそ偉いおばさんに物語ってもらうしかない身の上話だ。幸福は「しあわせ怪獣」にしか測量できないし、この意味で「しあわせ怪獣」も一つのサバイブだ。「観念家」V.S「しあわせ怪獣」、いい勝負か。
再版しかされない地図は一応配られる。それを自分でちょこちょこ書き直す人がいる。一から測量し始める人がいる。羅針盤が無い、方位磁石が無い、そんな時は、天空の事象で方角を調べる。

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生は大量のタンパク質