メモ
k11さんからヒント頂いていました。
http://d.hatena.ne.jp/k11/20071219
以下メモ的に
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無意識、言語の総体としてのラングの要請
方法論
方法としての現象学的還元、独我論など
科学的(科学記述的)な意義
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何故差異を強調し、区分を重要とするのか。
ソシュールは非直接的に言うことで、事態を示そうとした?
直接的に言うと、問題がある?実在論のドグマ
たくさんの2項は有効(ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエ、通時/経時、シンタグム/パラディグム、恣意性/線条性など)だけど、この「差異」の超越性、つまり根源的な「差異」ですら超越できない、ということ、「差異」の「差異」たる根源的な超越性を陰影的に示すことの意味は、強調しても強調しすぎることはない。
目に見えないが、そこに内在する人間、物を規定するもの規範であるもの
そういう構造の事を「無意識」として要請する。
「無意識」というシニフィアン、それに対応すると
想定されるシニフィエのレイヤー、増殖。
無意識は実在論的な意味で意識の対項、対概念ではない。
→逆にここにおいて「意識」が「ある」とはどういうことか?
フロイトの快楽原則、現実原則は直感的にわかりやすい。
ただ以上の意味での無意識がこれにどうつながるのか、内在的な連関については知らない。
それでも要請することの意味。
超越項が無い事に耐えられないのは一瞬だが
一瞬は連続する。非連続による連続。
超越し続けざるを得ない。
逆から見たら
超越論的なものはものとして対象的になるがゆえ、体系に引き戻される
あるいは超越を一瞬一瞬禁止される→最終的に汎神論になる?
普遍のパターン(超越性)があるんじゃないの?あるでしょ→構造主義
普遍のパターン(超越性)はやっぱりないよ、言い得ないよ→ポスト構造主義
ってことになるのかしら?
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価値論
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20070624/p1
価値の、価値言説の体系
歴史的な価値の記述、歴史哲学の意味、系譜学の意味
音楽の体系化、記号論的音楽解釈、価値化
アカデミズムとの関係
全てのもののコンテンツ化。コンテンツと言う概念の強力な含み
テクノロジーとの親和性
複製技術→複製「技術」
客体的な芸術に意味がなくなる。
アウラは蘇えるとすれば、新たな価値化の中。
一回性自体が複製される、そんな技術。
価値の権威が解体されるわけではない、ただただ相対化される
たくさんの権威、たくさんの島宇宙、それらの複雑動的な関係性
その中における
一極化現象の意味、孤独の意味=生の責任
一極化はフラットの逆説的現われ?
主体客体がコンテンツにおいて溶解混和する中で、新たに
コンテンツを作っていく事の意味。動機
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価値(の一次?)生成よりも価値受容(という(二次?)生成)
2007-12-19
まさに「生成」という意味で、唯物の次元で、技術の次元でフラットになってしまうのではないだろうか、と思いました。その先に新しい道徳を「生成」できるかどうか、「小さな物語」を語り始めるということになるとして、何をどのように語るか、生成するか、というポイントで恐縮ながら問題意識を共有できた気がしました。