心の問題としての同情や反省はある。それは感情やら情動であり、どこからか去来するものだ。ハロヲタは宿命的に傷つく。それは対象の性質による部分が大きくある。更にそれらヲタの宿命は人間の問題に敷衍できる部分もあるだろう。だがともかくそれら生は根本的には客観的に記述できるものではない。ヲタは主体的な生で、命を燃やす。私は私として関わる事はできない。そういう私はそれら主体性を客観的に見ることが許されない。
主体的な生が回す構造において、自分はフリーライダーで、ヲタでも非ヲタでもないという自己規定。上澄みをすする、という表現の卑下的な使用は置いておいて、さて、自分がフリーライダーであるという自意識、自覚はヲタとしてのどういう行動活動を促すだろう。私は排斥されるべきだ、という意識は、生の執着のおぞましさを逆説的に垣間見せる、直感的には「気持ち悪い」でやりすごせるかも。でも露悪の才能もとい悪の才能なんて、つまらない、無意識無邪気の構造の中では。本当のアンチハロプロでいることは、とても難しい。悪に仮託する時点でどこか違うような気がする。あるいは。
あるいは、私は私であることで、この構造下において、真性のアンチハロプロである。それを私の主体性の問題として引き受けることは可能だ。生の盲目。