オルタさんのメモにメモ

・マンガ、映画、音楽といったカテゴリーで娯楽を語る時代はおわりました。終了。そんなの語っても、もうポップカルチャーには成り得ません。学問としてやってください。これからの時代のカテゴリーは、ついんぶらーに、ニコ動に、YOU TUBEであり、本であり、WEBであり、ケータイといった形態になるはずです。そこでは「そこでやらなきゃいけないこと」は問われません。ケータイ小説と小説は異なります。ケータイ小説とケータイ写真は字続きです。アナログ写真とディジタル写真は似て非なるものでしょう。音楽が分からない人にはマンガは語れないとか、アニメが分からない人にテクノは語れないとか、そういった事すら、もう終わります。これから人々が膨大な情報を前に、リンク、クリップ、ミニブログな直感でつながっていく事を期待します。

http://d.hatena.ne.jp/alta/20071216

まず唯物的な未来観で、テクノロジーの面で言えば、実際引用のようになるんじゃないかと。二つ思いついたのは、アンチ・テクノロジーの介在と、質的な問題としてのインターネットに関する識字率みたいなもの。前者は、テクノロジーの次元以外から、それは大抵既存の規範的なものですが、そこからの規制的な働きで、それが量の問題の範囲内なら焼け石に水だろうけど、完全に警察的になったら、如何にテクノロジーイズムが頑張ってもどうしようもないだろうな、と。でもまあ多分それは起こらないだろうなあ。その行程において、いずれはそっち関係、テクノロジー関係の大企業、大経済者が、例えばハッカークラッカー的になるでしょうから。
後者の識字率云々は、ネットリテラシー以前に(これは量的な問題)、「直接」インターネット「しない」って人たちが大勢いるということ、そしてそれで成り立つこと。全員がインターネットにアクセスする世界、というのは一つ理念的にある。ただ「直接」か「間接」かというポイントがまたあって、間接なら皆インターネットしてる、って言っていいでしょう、それに意味があるかどうかは別として。やはり「直接」がポイントになるのではなかろうか。

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唯物的な意味、唯物の次元による、作者の消失は、実にみんなが作者である、ということで達成されるとしたら、どうですか?面白いのは面白い。語ること即価値になる。爆発的に増殖していく情報=価値、その量を人間は最早さばけない。ですが、さばく必要もないですね。ある意味、原始時代のサバイバル。サバイバルは必要など以前に、必死で死活的です。ネットはジャングルって表現はその一表面に過ぎないかもしれない。
大分違う角度でした。ただ「文化」は「生活」と少なからず関係していて、そしてこれからは最も根源的な人間の生と、漸近的であれ融化していくのではないか。例えば、また飛躍するけど堪忍、人間は最終戦争や巨大隕石の衝突や凶悪なウィルスで死滅するのではなく、ヒステリーで精神的に死滅すると思っていました。けど、もっとより具体的に、子どもを生まなくなるんじゃないか?子孫を残さなくなるのでは?それで絶滅する。絶滅を選ぶ類の精神というわけです。これはいわゆるヒステリーとは違いますね。そして全く暗い話ではない。翻って、「類」ではなく、対極の意味での「個」の契機がある。あるいは、「社会」「国家」「制度」「経済」「歴史」「文明」なんてそれぞれ大きな緒単位もある。
ときにヘーゲルは人間の本質としての「arbeiten=労働」を言った。これは狭義の労働ではなくて、まず西洋文明において、抜き差しならない問題であるところの「自然」との付き合い方としてのそれであるでしょう。敷衍して、最も抽象的ながら、最も一般的な、対象物への「はたらきかけ」としての「労働」。これは強力な「個」と世界との付き合い方だ。アレントはもうちょっと具体的に分類してるんだろうけれど、よく知らないです。更に西洋には駆動燃料としての「宗教」「神」「自由」などの問題があって、それらも決定的に絡んでくるだろうから、あんまりこの抽象は意味ないかなあ。生きるということは、まったくがんじがらめで、その点では進歩するより、退化する方が断然難しい。