サド侯爵の生涯 (中公文庫)

サド侯爵の生涯 (中公文庫)

一般のサド侯爵のイメージって、サディズムの由来あたりが主で、少なくとも積極的にいいものとはされていないと想像する。今でこそ、彼の文学的側面、思想的側面などでは評価されても、やはりどこかしらどうしても拭いがたいうしろ暗いものが、あるいは下世話なものがつきまとうのでは、と思う。僕もいまだ特別いいイメージをもっているわけではない。きっと誤解は誤解のままだ。それは良いとか悪いとかの尺度にはなく、ただ誤解が誤解のまま、という並行関係であるということ。著者は当時、その遺物の新たなる発見などから爆発した先行者のサド研究にあたり、自身も積極的に日本にサドを紹介した。猥褻文書云々の廉で裁判になったそうだ。wikiによる限りでは、本人の意向とは裏腹にどうしようもなくつまらない裁判、そしてその顛末になったかに見える。並行関係の誤解だ。逆説的にはコメディーたりえたのかもしれない。
この本を二つのポイントで読んだ。まず、著者は人間サド、その波乱の人生を描こうとしたこと。それから、そのサドの思想的な部分を積極的に評価したこと。総じるに、人間にある「どうしようもなさ」、決定的な「どうしようもなさ」、その爆発がメインテーマといっていいだろう。これは「至高性」(オルガスム、超越としてのエクスタシーとはニュアンスが違うと思う)をもつがゆえにどうしようもないのだ。その顕現としてのエロティシズムの果てに何があるか、僕には全くわからない。でも至高的な体験というものには興味がある。それは人間の生に直結するといってもきっと過言じゃないのじゃないか。さて、「どうしようもなさ」はやはりどうしようもなく、その性質を発露する当人の周り、世間、社会と相克してしまう。サドはその半生を獄中で過ごした獄中作家だ。動乱のフランスにおいて言うまでもなく世渡り下手であった。著者はここにおいて安易で誘惑的なロマンチシズムも、人間サドの不当な貶めも許さない。後者に関しては呪詛さえ漏らす。しかしここは難しいところであると思う。はたして人間サドを正視することが誰にできるのか?著者にだってできないだろう。でも、その代わり、著者は自分の中に自分の中の人間サドを見ようとしているのではないか。じゃあ誰の中にも人間サドはいるのだろうか?それは触れることができないし、わからないことだ。

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サドは大きな作家、思想家であるからこそ今の世に復活した、という言い方は、短絡な因果論との謗りを免れないだろう。もっともこれはサドだけの話ではない。サドとは対照的に、歴史上まったく知られなかった、復活しなかった人々のことを考える。その人たちは大事でなかったから、復活し得なかったのか?ここではできるだけロマンチシズムを排したいものだ。何が言いたいかというと、全く知られない歴史の藻屑となった人々は、まさにその「知られない」「いない」ということで確かにこの世に「いる」、関係している、ということ。これは全く形而上的であるけれども、もしこのイメージが、私たちの生きること、陳腐な慰めの対象ではない、生きることの真正に多少なりとも関係するのなら、いつでもそこから改めて何がしか生を始めることの可能に、少なからず寄与することになるのではないか、と思う。