今のあややをいくらの留保するところもなく好きと思える自分は運がいいのかもしれない。ただ運がいいだけ。そういうめぐりあわせ。
今のあややと昔のあややを単純に天秤にかけることはできない。とはいえ心は大抵いつもどこかから去来する、コントロール不能なものだ。心と一口に言ってみても、その中身は様々で、それは広大で私をすっぽり包んでしまう、状況的だったり場所的だったりもするものだろう。そんな中で、昔はよかったなとつぶやくこと。いや今の方が素敵だよとカラカラうそぶいてみること。そんなに変わりはしないのじゃないか。心の尻拭いをさせられることを現実といってみて、それを不条理だとする試み。それは私というこのどうしようもない不条理を決して掬うことはない。不条理な私を生きることを絶対的な責任とし、そして倫理とすること。私は私の責任だ。
月曜の朝、絞首台に向かう死刑囚が言うに「今週は幸先がいいな」。サバイバルの戦略としての本当を探す或は作る事と、嘘をつき格好をつけ逃げ続ける事。これはきっと別々のことじゃない。「今週は幸先がいいな」。
あややは天秤にかけるのだろうか?何かを選んだのだろうか?そして、ごっちんのことやみきてぃやあいぼんを思う。哀しい女の子なんて誰が見たいだろう。笑っている彼女たちの美しさを知っている。取り替えることも、比べることもできない無数のポイント、誰もがどこかのはしっこで繋がっている。そんな無数の私の責任の総体が、無数の私を含むところの世界の責任とイコールなら、世界は世界の責任を果たせ。でもこれはきっと違うだろう。世界はずっとどこにも行かない。墜落していてもわからないのだ。哀しみも美しさもその含んでいるものの名前をすらも知らない。そして依然私は私の責任だ。めぐりあわせの場所としての愛おしい世界。