http://d.hatena.ne.jp/musumelounge/で「写真」の話。話ずらして、グッズとしてのそれというよりは、彼女たちのオフィシャルの写真それそのものについて。
僕はハロショなどで売られている写真が大好きです。先日はあややと亀子とたかしゃいの写真を手に入れました。僕はまずそこに映っている「そのもの」がピンとくると、写真を欲しくなります。「そのもの」とは彼女たちの瞬間のデザイン、意匠、形象、イメージ、その総体、全体とかその辺りだと思います。そこにはとりあえず意味とか物語は無いと考える。とても即物的だし反射的なのです。
その行動原理としては「消費」という言葉がとてもしっくりきます。僕はタンブラーというウェブサービス(その暗黙的ルール)を今のところとてもとても好いているのですが、そこにおける行動原理が酷似している。イメージの消費、それがまず第一に先立つもので、それ以外は後付けになる、といったものです。そこではスピードをも楽しめますし、実際そういう側面が優先的になる場合もあるかもしれない。イメージ≒情報の中をスピードあげて突っ込んでいくという快楽でしょうか。しかし、それが成立するには、選択以外に実質的なコストがかからない、ということが大事になってくる。その点、ハロショで写真を選ぶ場合は、お財布と相談などしなければならない。これは家政的な側面では石油王以外の皆の共有懸案たりうるのではないでしょうか。そういう意味では、ハロショに行って、ただただそこにある写真の羅列を眺める、そして帰る(今日もハロショで写真を堪能しました)、という行為は以上にあてはまるものではないでしょう。そういう行為が実際成り立つかどうか。もっともこの問いは、ある程度の経済的行動が可能であるということを想定してのものです。
やはり、「消費」、それもイメージのそれといったところで、そのイメージを、つまるところ写真そのものを「所有」したいという欲望に目をつぶってこその話ではないか。「消費」と「所有」は契機としては別だ、と考える事にとりあえず不具合は見出せません。なるほど、「消費」だけで成り立つなら、それこそ、ハロショに行って、いや行かないでも、ウェブ上にあるそれらイメージ画像を見ているだけで、それで淋しいなら、それらをローカルに保存することで済むのではないだろうか。これは一つの理屈で、無論成立しうるのですが、やはり足りないものが何かある。どうやら「モノ」としての「写真」≒イメージを実際所有する=手にするということがポイントになってくるのではないか。
 
・「モノ」としてイメージを所有すること、その動機
・イメージに付随するもの
・何故オフィシャル写真をネットで販売しないのか?
 
この辺り考える予定。
 
参照
アイドルの「写真集」は形式化されているのか。男の欲望や理想を具現化したものなのか。 - 死に忘れましたわ
写真集という「形式」について - activeエレン
 
斧屋さんも書いてらっしゃったはずなんだけど、自分のブクマに見当たらない。
斧屋さん教えてください。人任せ。