メモ

               ←     フィードバック     ←
               ↓                    ↑          
情報 → inputdevice → 脳(ブラックボックス) → outputdevice → 情報

って一つの理解。
 
ひとまず心がどこにあるかってのは別。
脳は身体的なもの全部を含む。情動も器質による限りでこことする。
 
フィードバックを自己とか思惟とか反省とかと呼んでみる。
心的過程、内的過程という意味なら心もここでいいかも。
キェルケゴールの「関係に関係するところの関係」も
部分的なものとしてここじゃなかろうか。
 
価値付ける、価値を秩序付けるのはフィードバック。
 
サヴァンを身体(脳)に還元するように、現象としての「天才」も、まずアウトプット対象の情報から
判断して、結局身体に還るか。精神病理学的対象としての天才はクレッチュマーあたりから
なのかしら。いずれにしても、「天才」のアウトプットであるところの「作品」「情報」をそれとして
判断するということが、一つの価値付けであるということは
フィードバックであるところの価値付けを考えるに何かしらのヒントである、と思われる。
 

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脳(身体)の非可塑不可塑と、物理的「時間」の非対称性。
 

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例えば
唄に心をこめる、という言い方は日本独特のものなのだろうか?
見えない心をこめることをoutputdevice固有の問題、つまり出力デバイスのテクニカルな問題として
考える事には無理がある。出力の洗練の先に何かしら「心がこもっている」状況が発生する
ということを、フィードバックによって一意に決定できないから。
「心がこもっている」という受け手の価値判断、一般に入力デバイスの問題として
考える方が理にかなっているように思われるが、尚一層大事なことは、ひとまずそのような「心」は
上記図に組み込まれない、外部的な何かではないか、と考える事にありそうだが、どうか。