メモ的

degmzongoさんの対比はまた尤もだなあ、なんて思ったり。
 

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ちょっと話し違うかもだけど、ヲタクの認識論とサブカルの認識論って区別はやっぱり想定してしっくりくるというか、説明としては全うじゃない?って思う。二元化に固執する動機は己に見当たらないけれど、まあ大体話しの流れでってやつで。
 
音楽の存在論っていうとちょっとしかつめらしいかもしれないが、やっぱそれは厳然とあって、アカデミックであり、そうじゃないところでもありうる、と考えている。
また、音楽の純粋さ、それ自体での純粋な価値というナイーブな観念を、純化する方法は軽く見積もってもいくつもあると僕は考えているんだなあって、反省的になるが、でも、ある種のスノビズムはどうしようもなく否めないしまあいいかという開き直り。
音楽の存在論と音楽の価値はともに純粋であればあるほど区別しにくくなるかもしれないけれど、やっぱ別なものとして要請したい。
音楽ジャーナリズム(そんなのあるのかしら)における「かっこいい」「ダサい」は形容詞以上の意味がある、ってネタバレがうっとうしい部分はあるなあ。J-POP批評の可能の話として。
「批評」ってそれだけで印象悪い、嫌がられてるかもしれないけれど(これはすごい偏見だけど)、自身がエンターテインメントになることで一つ何とかなるようなならないような。

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感性は知性を馬鹿にする?知性は感性を馬鹿にする?

感性≒センスは知性に規定されることで初めてそれとなるとしたら?という問いかけは、主知主義的なドグマに過ぎないだろうか?しかし想定のナイーブさでいえば音楽それ自体の純粋さと感性それ自体の純粋さはどっこいどっこいであるといっていいだろう。

 

私は絶対に外部(神様的視点)に立てない、という意識の透徹が、ヲタク語りとサブカル語りの二元を相対的に眺めることを逆説的に可能にするという詭弁じみた正当化。
ヲタクでもサブカルでもない、ということを無責任や開き直りでなく、極めて責任的に選択することを望む。つまり、認識を倫理で引き受けるということである。
ただし、唐突だが、他者の問題はここではいまだクリアにならない。これは確かに倫理の問題であるし、それがいずれかの形で他者に通ずる可能性を本質的にはらむとしても。つまりもっとも現実的に、誰かが私を、あなたはヲタクです、あなたはサブカルですと規定することは勿論ありうるし、それは私が肯定否定するしない、どのような態度をとるにしてもそうなのである。それが他者の問題であり、その困難であるが、この問題設定は認識と倫理の境位にあるようなイメージだしそれらの少なからぬ混同があるかもしれないので、とりあえず保留する。というか脱線でした。
 
純粋に音楽のファッション、形式としてのそれにおける価値について、
あるいはもっと現実的にその範囲を狭めてみて、J=POPという音楽事象群におけるそれ、とした場合どうだろう、ハロプロ音楽が今ここでの主題的な位置を占めることはともかくとしても、元々のJ-POPという領域自体についてすら、正当に批評≒価値付ける権威的な軸が機能しているだろうか、というと、さにあらずとてさればさもありなん、もっと極端に、もうやたらめったら積極的にノーだという、グレーから漆黒にまで至るネガティブな主張の数々を想定することは容易である。
その根拠として、いわく、音楽のジャーナルな価値(ヒットチャートから芸能としてのそれ)の相対化、サブカル的な視線による音楽の過剰な客体化、音楽ファンによる音楽の過剰な主体化、などなど。この根底に何があるか、例えばそこに軽薄さにおいて全く重篤相対主義があるとしても、やはりそれを対象として軽んじることは許されない。

 

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何かを価値付けることで規定されてしまうこと、序列化されること、騙りとられること、ややもすれば、主体が、主体的な何かがそこで発生してしまうことを、私たちは恐れる。これをすんなり、倫理の問題にもっていければ、ことは簡単なのかもしれない。でもそれは違う次元のお話なのである。

 
音楽の神さまを想定しているんだよね。音楽の神さまは過去も今も未来も全部知ってる、発生した全部の音楽を知ってる。その神さまが鏡のように働いているというか。だとしたら人間にできることってやっぱり確実にどこかの領域にある。バッハとモーニング娘。は存在的にも価値的にも同じです、「でも」違うのです、と述べる精神に気高ささえがあればいい。