一人称がバラバラの自称音楽家の僕です。

http://d.hatena.ne.jp/colindisc/20070907
さきほど契約してるCDの流通業者の方とお話したのですが、いわゆるインディーズ系のCDがほんまに危機的状況に陥っているようです - 吉田アミの日日ノ日キ
2007-09-08
レコード屋でインディーズCDを買えるということはすごいことだなあ、と改めて。取次ぎやら流通やらの巨大な網の目を一インディーズの一CDが巡り巡ってレコード屋に並ぶという。規模や対象の性質は決定的に違うけど、システムだけでいえば、あなたのコンビニで俺が作ったドーナッツが売られるってのと同じじゃないの?ごめん俺ドーナッツ作れないんだ・・・
 
インディーズって何だろうか、と素朴に問うて素朴に答えてみるに、それはあらゆる意味でメジャーのカウンターパートといったところになるだろうか。文化価値的、経済的カウンターパート。二つしか思いつかなかった。でも、ならば、巨視的に見る限りで、とりあえずは、蛍光マーカーひかれててもとにかく売れるメジャーがんばれ!って応援できるのではないでしょうか。そういうのあんま買わないけど。シーソーゲームのようなイメージをメジャーとインディーズの関係にあててるわけです。メジャー頑張れば、インディーズも負けずに頑張るぜ。まぁこれは全くのイメージにすぎないのだが。
とりもなおさず、業界の困難な状況に目を注ぐ必要はあるだろう。音楽業界音楽産業の経済の規模、市場規模が縮小傾向にあることを、不勉強ながら実数としてはまったく把握してない、というかする気が無い僕なのですが、そういう傾向の直感はやはりおぼろげながら持ってて、そういう直感はみんなに共有されているのだろうという直感もおぼろげに持ってます。その上で、そういう市場の縮小傾向と、実際人々がどんなメディアであれ「音楽」を経験するという経験の数の傾向の対応関係にもの思う。大分観念的だが、要は、「音楽」自体を経験することの相対的変質。総体としての「音楽が売れること」と、個的な「音楽を聴くこと、経験すること」の極めて直接的で逆説的な関係。俺が俺の耳で音楽を経験することの可能の自明性。大分話逸れていってる。
 
(文化的)価値の問題として、何かを「よい」「おもしろい」と価値付けることには、とてもパワーがいる。

本当に面白いものを見つけようと思ったら、世界の事物を、他人の力に頼らないで、自分の力で再構築・再発見するか、信頼できる数人の先達の意見を参考にするか、です。「なるべく多くの人に聞いたら、正しい答が得られるだろう」ということは、少なくとも知的エンタテインメントの方面ではありません。正しい答なんてないんですから。

ランキングはつまらないけど、自分で選ぶほど暇じゃないので仕方ない - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

幸か不幸か自由が空気みたいになって、何かを評価するということに我々は命をかける必要がありません。当然か。柔らかくいってみて、あとまあ、時間がないとか、面倒くさいとかですね。ここでは同義に扱ったが「価値を見出すこと」と、「価値付けること」は似てるようで全然違うかもしれないから、また考えてみようと思った。
 
どこまでネット技術を利用できるか。ロングテール・マッチングを利用できるか。グーグル(的な価値)を使えるか。僕はネット技術の興隆の尻馬に乗っかって、インディーズレーベルを立ち上げようと思います。それでやることは全然旧来と変わらない方法なのです。要はサンプル音源を聴いてもらって、CD欲しかったら送りつけると。ただ方法は同じだけど、コンセプト、意味を変える、ってか昔に戻すの。ちょっとまああんまり知識無い子の発言として聴いてください。サンプル音源はタダです、CDもタダです、その上でレーベルのパトロンになってください、ってやつです。一応形式的にはCDの対価、交換としてお金を頂くわけなのですが、パトロンになることを全面に押し出すんです。パトロンになってよねってポップな明文化。依然重いな。あなたの愛は重すぎるのよって振られるパターンだなこれ。うまくいくかわかんない。今ふと思い出しましたが、菊地成孔氏の「CDは株券ではない」ってフレーズは、どういう意味なんだろうか。関係ありそうだけどわかんない。
 
音楽なんてもう要らないんじゃないか、というニヒリスティックな主張に、俄然「NO」を突きつける、突きつけ続けることの意味。この意味がこれ自体として自存しうるか、といえば危うい。社会とか経済とか、要は音楽以外の巨大な事象との関係は見過ごせないから。それでも、大きなレコード屋さんと、こう激しい殴り合いじゃないけど、ほっぺたのつねりあいみたいなことを展開していけたら、いいかなあって楽観的な締め。