メモ

http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20070813/p2
>全てのものは組み合わせであり、その限りで全てのものはオリジナルである。
と書いたが、ここでいう「オリジナル」はあくまで
認識の次元に想定されるものであり、価値のそれではない。
その意味でそれは、法制度に規定される「著作権」、
著作権」に関する法制度などにまつわる「オリジナル」、
そのような根拠としての「オリジナル」を相対化するものであることを
もくろむ。
 
・価値の次元の「オリジナル」に対して
価値の次元の「オリジナル」(例えばオリジナリティ)は認識の詐称である。
というのは、それは、認識の同一性を無邪気に前提するか、
同じようなものだが、逆に認識の制限を意図的に無視するか、
あるいは認識の外部的なものへのアプローチをサボっているからだ。
最後のサボりは例えば「これは認識ではない」ということで
回避できるかもしれないが、外部への言及がどのように成立するのか
内部的には決定できない。
 
ベンヤミンの「アウラ」「一回性」は
単に個的体験的な一回性だけをいうのではなく、やはり
彼の全歴史哲学に通ずるものであるだろう。となるとよくわからない。
「複製技術」ということで彼は何を言いたかったのか?
それでも「アウラ」は全ての「オリジナル」概念を
動揺させうるだろう。