飯田元リーダーの結婚を聞いて思ったことは、彼女10年記念隊はどうするんだろう、ってことだけだった。そして、身重の身でやってのけるとのこと。まあもともと10年記念隊でできるであろうこと、やるであろうことにピンときてなかったってのがあるし。いえば一般にコンサ活動の内容自体に対する特別な思いいれを、傾向的にもっていないわけだし。これは当然だがいわゆる「現場」というメディアを貶めるものではない、なんてエクスキューズを一応。
もっとぐっと消極的な楽しみ方、例えば、活動期間における、ちょっとした挿話として、なっちがこはといっしょになってそこここで遊びまわってる(なっちはやっぱりこはとガキンチョ指数同じぐらいかあフハハ)とか、ごっちんかおりんに対するガキさんの態度、振る舞い、その遠くから微かに伝わってくる緊張の程度などを、何かしらの手段媒体で触れることができればいいな、なんてぐらいの、穏健といえばとても聞こえのいいアプローチ。そんな消極の何が楽しいのか?と問われうる、そんな享受を享受する。
 
メディア「量」の逓減に比例して、物語の量も減るというイメージは、説得的かもしれない。勿論個々のメディア特性による、質的差異はあるわけだが。はたしてエンターテインメントとは一体何なのか、その本質はともかく、その成立については、私たちに多かれ少なかればれている、あるいはばれているように思われる(それは共同幻想的で充分)。ばれていて、それらが共有されている、と思っている。私たちはそんなエンターテインメントについてもお喋りだ。エンターテインメントがつまらないのは、それ自体の問題か、あるいはメディアの次元の問題なのか。メディア不信、エンターテインメント不信。楽しむことと、楽しまされることは実質的に違うように思うがどうだろうか。私たちはお喋りの方法を持っている、エンターテインメントの拡大の、拡散の、創造、捏造、作為、破壊の、良かれ悪しかれたくさんたくさんの可能的な方法を持っている。さて、私たちがつまらないものを面白いものにすることに、意義はあるのだろうか?ハロプロは両義的エンターテインメントである。
 
エンターテインメントの問題の次元と、女の子の問題の次元を一元化しても勿論いいだろう。でもそれらを混同する不幸を思い返してみると・・・いやいや私たちは依然消費者だ。消費者の権利。権利というヒステリックで盲目的な闘争、闘争のフリをした惰性態。ああつまらない消費者にはなりたくないものだとかっこをつける。馬鹿な消費者であっても?
 
私は飯田さんを好きだ。これは如何にも軽々しく響く。「好き」はもっと殺伐としてる方がいいよな。命を賭けることにしようか。私のそれは十中八九いわゆる恋愛感情ではないけれど。飯田さんが結婚するとなって嘆き悲しむ人もいるだろうと思う。あなたの恋愛はフラれた。恋愛の対象が飯田さんという遠くにいる個人だった。彼女は結婚する。彼女は芸能人だった、けれどまあそれはそんなにたいしたことではない。量の問題に還元できるからさ。恋愛がかなうなんてほとんど考えたことはなかった。そもそもこれが恋愛だなんて思いもしなかった。ただ彼女を見ることが、唄声を聴くことが、本当に大事だった。でも、あなたの恋愛はフラれた。失恋のショックなんて誰が味わいたいもんかよ。恋愛は失恋という形で発生しうる。さーて次の誰かにいくかな。あるいはもう誰にもいかないかな。もう二度と恋愛の汚物にはならない。いやいや結婚なんて、たいしたことないですよチョロいです奪ってやります、制度の破壊です。ハロプロの沽券ハロプロのイメージ、ザッツアンエンターテインメント!
 
生を呪わない奴隷のルサンチマン=生を楽しむこと