http://d.hatena.ne.jp/musumelounge/20070702/1183333456
 
偶有性が真に問題になるのは、ポスト「ポストモダン」のシニック、そのトートロジー的変奏の態度が、形式化による徹底的な自己言及によって破壊され同時に
>「じゃあなんで、あえてアイドルという選択なの?」という質問
が同じく問いとして無効になる瞬間、そんな瞬間の内に、実は「選択なんて最早できないのではないか」という絶望的な懐疑(もう懐疑ですらないかも)から、それでも我々は、自身のそんな「非選択的選択」の責任を負わなければならない、そういう不条理な倫理的形態(そこではニヒリズムも開き直りも近代的道徳概念の復権もそのままでは期待されえない)、つまり、そういう不条理を個人の「倫理」(逆説的な普遍性)として受け取らなければならない、といったような事態においてこそなのでは、と思いました。
 
この観念的叙述は、逆説的に、「偶有性は問題になるだろうか?いやならないのでは」という反語として機能すればいいなあ、と思うのだけど、それってただの希望でしかありえないかもしれない。
 
更に続けると、whatとwhyの時代が終わって、howが無限に形式化し始めた世界で、どういう戦略立てるかってのを延々とやってる、やるしかないのだとしたら、そんな底なし沼でそれぞれがそれぞれ強度に逆説的な個を確立して(倫理)、そっからパラレルに世界を広げていくしか無い、というイメージ=観念が有効だろうと思う、素朴か。実際そういう作業をみんな(どこまで意識的なのかはわからない)やろうとしてるように見える。
 

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>「じゃあなんで、あえてアイドルという選択なの?」
って問いは、
「なんで人を殺してはいけないの?」
ってのと問いとして等質だ。
後者(例えば、根拠としての道徳とか社会的規範)が絶対的に重要でありえない。
後者のような問いが問われるということ自体がそういう相対性を示してるんだろうと。
 
これは蛇足的かも。
 

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問いが問いとして素朴に成立しないのなら、どうすればいいのか。
 

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参考図書読んでみたいと思います。