カンディンスキー青騎士展見てきました。
兵庫県立美術館-「芸術の館」レンバッハハウス美術館所蔵 カンディンスキーと青騎士 2011年4月26日(火)から6月26日(日)まで Kandinsky and the Blue Rider from the Lenbachhaus, Munich
割に具象的なものからパッと抽象的になっちゃう瞬間を見た。カンディンスキー個人の軌跡と、彼の周りにいた人たちの動き、それらの作品がズラズラ時系列で並んでいた。
そのように芸術作品の固有の歴史(その極々一部であるが)を100年ぐらい後から眺める、観察すること。
その観察のなんともいえないあっけなさ。単純に個々の苦心惨憺が見えないからだろうか。そりゃ直接は見えないだろうけどそういうことじゃなくて。絵を描く画家の作業をずっと撮影してる動画のことを思う。これは別の作品か。
「必然性」みたいなものを後から見出すこと。見出してしまうこと。解釈に呪われてしまって身動きできないってこともあるのかな。歴史を時間軸、線的連続的なものと捉える。反対に全く線でも連続でもない、飛び飛びデタラメだ、とあえて見るならその意味は。
やはり木の有機的な成長のようなモデルには一定の魅力を感じる。個々の作家の創作精神の神話があって、その環境との相互作用における有機的な発展があって、それぞれで。飛び飛びデタラメモデルはデジタル化して色彩で同種のものを検索するとか、どれぐらいの時間で描かれたとかで、分けられるの。意味があるかしら。そういえばRGB分析、レベル配分の話は別の角度からvoqnがしてたなとhttp://synr.tumblr.com/post/39526684/voqn-rgb。分析の道具から何からわからないところ多いけれど、何となくすごい話だと。
それはそれとして、芸術の歴史がどう作られていくか、見られていくか、と。
あとは、鑑賞の条件とか、制作の条件とかについて。
それら条件を壊したり自覚的に引き受けたりするのが現代的であったりする、と言って差し支えないだろうけど、陳腐か。
それから、本当はこんなにきちんとデッサンできる、綺麗に描ける、だけど、こういう画風なんだ(そういう「基礎的?」なことがあって始めてラディカルなことできる)というような言い方のどこかしら興味深いところ。