ときお

行ってきました。方々ありがとうございました。充実しました。

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終点として東京を思った。終点といっても象徴だし比喩だし。誰もがそう考えるかは知らない。その終点でたくさんの亡者が徘徊してる。タフに、生きることに洗練してる、せざるを得ない、亡者。亡者も比喩だけど、なんだかすみません、亡者だなんて言って。亡者ってどういう意味ですか。終点って言ったのでセットで亡者って言うと意味ありげだと思いました。
終点でたくさんの亡者が何をするか。主体の欲望はその他者のものって主張を上っ面でなめるに、じゃあ亡者の高密度ならいよいよそれは恐ろしい交通になるのではないか、と。亡者のおしくらまんじゅう。東京より人口密度が多いところはきっとそれなりにあるだろうけれど、その人たちはそこを終点だとも思わないだろうし、何よりここでいう亡者ではない。
行商のおばさんぽい人を電車内で見かけた。2割り増しぐらいおおげさに言うと、その人は3歳児が5人入って顔出せそうなぐらいの大きさの行李みたいなのをうんしょと背負ってまして、背負う紐をグッと握ってたように思うし(きちんと見てない)、それは多分重い。荷物をいちいち降ろして座るのも面倒だろう。扉は左右どちらも開くので、それに合わせてか行ったり来たりしてた。そんな描写はともかく、彼女も亡者です。周りの乗員もみな亡者。そこには整然としたルールがあるように見えた。わたしはただのおのぼりさんでした。山の中でそういうおばさんに出会ったならみな「おばさん重いでしょう、持ちますよ」って言いたくなって言う、としよう。どっちが道徳的に良いとか悪いとか、そんなことはまったく言いたくないが、道徳というまた別のルールと対照すると亡者のルールはわかりよいかも、と思ったのでした。

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というわけで、またよろしくお願いします。