ふむー

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ

ストーリー仕立てで頭に入りやすい。「社会企業家」になった人のおはなし。具体例、巻末参照などアンカー多いし。
まず「やりたいことがない」=「自己実現」の回路が、「人のため」「社会のため」へと転じるのは、感覚的にも、また理路としても簡単でないとは思った。翻れば「自分のため」と「自分以外の社会のため」が別の概念として分けて捉えられるような社会の構成、そのコンセプトが人々に支配的である、共通に内面化されている、そういう事態が前提にある、想定されているのだろうけれど。あるいは、それらの事態にまつわる個々の内面性の物語などは贅沢だとか、豊かさからだとか、言ってみても、でもじゃあ解決があるのかというと、それだけでは決して何も始まりはしない。それら事態は現前してて切実であるわけだし。そして、それらは比較的新しい出来事なのだと誘導的に連想させる物語には事欠かなくて、ただただジェネレーションギャップの問題にするならより一般的になりそうだけど、するとぼやけてそれじゃ先に進まないし、イニシエーションやモラトリアムなどの話ならどうか、準拠する概念枠が社会的文化的な事象であれ、心理的内面的なそれであれ、何がしか分かれているものを、かくかくの状態状況であると説明する、あるいは、分かれているもの、事態を積極的に繋ぐということであっても、「社会企業(家)」は同様に一つの結節点、概念なのか、とも思う。
理想としては、社会における具体的な諸問題の表面から根っこへさかのぼって、それを無効にすること、新しく社会的な価値を与えることで、経済的な価値をも得るということになるだろうけれど、それは私企業公企業関わらず難しいだろうし、経済と社会の一関係として想像すると興味深い歴史の点。