れいなさんの誕生日、二十歳になったら急に年齢が近くなった気がした

日曜は神戸ビエンナーレに行ってきた。灘の県立美術館の展示、常設の方も見る。現代芸術はいつも苦心してる、のだろう。例えば、皮肉という態度もいつまでも元気であるわけでない、と思う。皮肉・・・。芸術が芸術自体を怒ったり、笑ったり、色々してて、皮肉もきっとその内の一つの態度じゃないか。あるいは、シニカルは、いつかからの(いつからかはわからない)人間の人間に対する一般的な態度、そんな印象を持ってる。でも、どちらにせよ、そういうのってボンヤリした話だ。ボンヤリ。
芸術は、自身の伝統のことを考える(ボンヤリ)。シュヴァルの理想郷のミニチュアのような作品があった。群像の銅像。時代の流れを順に展示していた。原始への回帰みたいな現象を笑った。みんな(みんなではないのか)、何の次が「原始」だったのだろう。いっせーので、原始。面白い。横尾忠則のターザンがあった。小磯良平の人物の肌色が気持ち悪いぐらい肌色だった。色が好きです。色の組み合わせが。抽象画もいい色がいいな。絵は、どこで完成なんだろう、と思う。後から弄れる、筆を入れられる、という意味でもそうだけど、うーん、写真とも音楽とも違う固有の完結が、一般にあるのだろうか。作品の享受という意味では、いつだって「今」である。つまり二つの時間、完成の時間と、享受で充実する時間。そういう想定はどうなのだろう。
天気がよかった。女の子と歩いて喋ったり喋らなかったり。そういう態度をとることができるのも、ある程度以上気心が知れているからなのかもしれない。というほど、何かを知っている、とも思えないが。ともかく、内容を考えながら誰かに話をしていくのは、その場で何かを作っている風で、対人のコミュニケーションなのだから、その条件から大なり小なり疲れるにしても、気持ちがいい。考えていなかったことを都度都度つむぎ合わせて誰かに話すことで、さもそれまである程度継続的に考えていたかのように、わたしの中にその考えの何がしかがあったかのように、いや実際、記憶の材料があったりするのかもしれないけれど、それはそれとして、ちょっと詐欺めいていて、自分を騙してるようでもあり、そうでありながら、楽しい。スポーツみたいな感覚もある。論文を書くような風でもある。大げさかしら。誰に喋るかで、内容も変わる、そんな風にも思う。どうだろう。

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色々な人が色々喋ってて、たまに聞き耳をたてる。すごい。無数の脳髄があって、そこから無数の神経が出てるのだ。神様がうらやましいですね。これって気分なのか。いつもうらやましかったら、死ぬ。また死ぬって言ってしまった・・・。