自分のうちにある「欲望」が、他人によってるとか、社会的であるとか、って話はやっぱり面白い。そこから降りるわけにはなかなかいかないだろう。ところで、私は今何も「欲しくない」。前述したところからはきわめて逆説的な話になる。要は、自分が欲望していた物事が、借り物であった、自分の内からではなく、外との対照というか関係というか、そういうところから生み出されたものであった、そんな風に思うようになった。なんていう風に、今の自分の内的な事態状況を記述できそうなのだけれど、はっきりはしない。
私は「欲望」そのものが欲しい。砂漠に行って、生き延びることができるかどうか、ということを試すのは、今の私には意味があるのではないかと思う。想像するにそういう過酷な体験は生理的欲求とか身体的な生物的なそれをしか触らず、むしろ「欲望」とはかけ離れた次元で事が起こる、ということも、言うは容易いのだ。

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わたしはわたしを壊して欲しい。わたしは世界の兵隊になりたい。

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発想は安易かもしれないし、観念の繰言のような気もしてきた。抽象的な「欲望」など何になるのだろうか。今何も欲しくない、なんて、なんてつまらない。気が確かでないのだろう。「欲望」が無いと記すにおこがましい気もする。欲望に愛想をつかされた、といったところかもしれない。でも、だから、砂漠に行くというのは、ばかげていて、それでいて正しく思う。