文句も何もない

だっていきなり「モデル」なんて言われても反応できない。そういう伏線がコンテンツとして共有されてるわけでもないし。そもそもいつから「物語」が脆弱になったかって考えてみても、それは結局のところ何のことはない、自分自身がそこに入り込めなくなった、ファンでなくなった、能動的に享受しなくなった、ということで説明できそうだ。勿論これは、「物語」が作られるプロセスの一面をしか言い当てていないだろうし、それにまた、変わらず楽しんでいる人たちはいて、その人たちは己が物語をつむいでいる。ならば、私の胸のこのあいまいな輪郭線のぽっかりは単なる感傷の仕業にすぎない、と乱暴に言えるだろう。
「物語」は記憶でもある。それは提供される彼女たちにまつわる全ての文物と、それらに対するたくさんの人々の反応であるところの文物の総体と言うと、どうだろう。たくさんの人たちがアウトプットする記憶、それらを専ら文字で受け取って、自分も間接的に、あるいはとても積極的にそこに関与できる場合もあって。最近ということもないかもしれないけれど、オリコン1位ってのはどうだった?どれだけそのような既成の権威がぐらついたり、昔と意味が変わったりしても、その祝福をオフィシャルで報告される時、何かしら共有したいものが提出されているのだと気づかないわけはない。それはとても嬉しい報告だった。そうか、私はもっと大きな嘘でも何でもいいから、騙されたい、そういうことなのか。他人任せだし、気まぐれで勝手な受け手の本音というところかもしれない。