教育とか、日本のこととか、非労働のこととか

http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10274421578.html
日本に国力があった。「社会保障」の充実という側面があった。

従来の「社会保障」が崩れた。労働、働くことにおけるそれらの条件、前提が『「日本型雇用」と「年功賃金」と「企業内技能養成」』だった。それらは従来のように機能しなくなった。あるいは著しくそうなった。

日本の国力、社会レベル、文化レベルが下がるかも。

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過去うまくいっていた時にうまく機能していた物事、条件が、今うまく機能していない、とする。過去において、各種物事、条件の高い機能性が「うまくいくこと」へとフィードバックしてた側面が少なからずあったと分析されうるなら、今現在、例えば「それらのみを」つまり各種保障的なフィードバックをあてにして或いは動機にして、労働市場へ飛び込むことは、敷居が高い。でも食べないと死ぬので、低賃金でもサービス残業してでも、非正規でも、何かに期待するチャンスは低くても、働かざるを得ない*1

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生きるか生きないかを選択する、何のために生きるかを選択する、日本にその社会に文化に貢献するかどうかを選択する、などのチェック機構としての教育の一つの側面。何のために働くか、いつまで生きるか、日本人でいるかいないか、など。
教育あるいは啓蒙の難しさは、当然その成功不成功の質差の断絶にあるが、それ以上に、コミュニケーションが非対称であるということだと思う。一般論的に考えても、当たり前のことではある。そのまま逆に、何かが「わかる」ということの困難。特に、人間が生きるという事に関しての「わかる」についてはまったく容易でない。

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先人の他人の経済活動によって今の日本がある。一応は食うに困らない豊かさを一般的な所与としている。あるいはそれ以上の文化的な社会的な所与。無論そこからはみ出る人はたくさんいる。また、自殺する人は、これら所与が問題でない場合も大いにあるだろう。彼らは選んだ選ばざるを得なかった。想像でしかない。

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身近な人間、家族や知ってる人、好きな人が苦しい思いをする、それを見る、感じるのは嫌だ。だからその人のそれら苦痛を低減させるため(可能かどうかはおく)に生きたい。誰も自分が生きるということですらもう手いっぱいなのだ。でもそれでも。その上で、共同体や社会、国家など多段階について考えることが出来るのだろうか。あるいは順序が違うのかどうか。

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「自由」という言葉を考えている。経済的主体としての「自由」、実存的な「自由」。法律のレベル、人権のレベル、社会のレベル、色んなレベルの「自由」。

*1:⇔条件はそれぞれまったく異なると予想するけれど、自殺、ニート、引きこもりなどという非労働