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読む音楽 完全版

読む音楽 完全版

日本のクラブミュージックの一つのシーン、領域から己に分析的にあたり、そこから敷衍してクラブミュージックのより大きな部分を見ようとする試みとして、ひとまず読んだ。キーワードはジャンルとしての「ゲーム音楽」「ハードテクノ」「ハードコア」「ナードコア」「J-Core」など。それから「音楽を聴く」ということはいかなる営為たりうるか、という音楽論。こちらがテーマとしては本筋。いえば、一億人総作り手、というような含みもあるかと。あと海外ネットレーベルのいくつかにアンケートとってる。ネットレーベルの立ち位置、その思想と実践について。それらは少なくとも表面的にはラディカルでなく、堅実だし健康だなあって印象に映ったけれど、自己反省してみるに、それは僕自身の考えからしたらただただそうだと言うに過ぎない、と強調しすぎてもしすぎることもないだろう。アンケートでは、radioheadのこの間のアルバム、ウェブでダウンロード、対価はあなた次第って実験についてどう考えるか、ってのもあった。あの時期に行われたアンケートなのですね。それに関しても各レーベルオーナーは、それなりに冷静な反応で、おーそうなのかあと、僕のあの時の興奮は・・・ウフフがはっはあ恥ずかしいと思わないでもないこともない。
ポピュラー音楽の世紀 (岩波新書)

ポピュラー音楽の世紀 (岩波新書)

著者強い、インパクト。なので、いい意味でぐったりした。ポピュラーミュージックをその起源から紐解こうとしてる。フォスターを持ってきててへーって思う。ポピュラーミュージックって印象じゃなかったから。定義的に言えば、ひとまずそのままだけれど、「大衆の音楽」が著者のポピュラー音楽で、それはマクロな観点から見たところの、民俗、フォークロア、ローカルな文化の、それらの環境との相克練磨による発展的な産物、とでもなるか。著者は、表面への表れとしての文化、文物の騙り、抑圧的な性格などについて憤るが、商業主義の是非を根本的には言ってないと思う。コマーシャリズムは大衆音楽発展の契機だ。テクノロジーについてもそう。そして「アメリカ」「西洋」についてもそうなのだと思う。強い資本の論理(と極言できるか)はアメリカ、ヨーロッパの実に「内外」問わず、「文化」帝国、その蹂躙を駆動させる。著者はそこに構築されるヒエラルキーイデオロギーを時に感情的に暴かんとする。強者は、悪者は誰なのかについて言うことはとても難しい。うーん、文化相対主義のアクチュアルな問題はどんなのでしょうか。エスノやナショナルで均衡を失してるのかな。

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で、僕は日本人で、何するかな、どんな音楽するかな、って改めて思った。何度目の改めてでもよいだろう。日本(の文化)のこと考えるとき、eigokunのこと考える。eigokunで「hatejap/greatjap」。

モギー?結構つっこむところつっこんでた。作曲家との対談。直接に日本の文化について話たりもしてる。サウンドスケープって概念はどんなものか、気になった。自分は今は文化論精神論(的な読み)はいらないかあと自覚した。発想のメカニズム?についてちょろっと語っててそこは面白かった。
デジタル音楽の行方

デジタル音楽の行方

これ読んでまだ信じがたい部分あるんだけど、そんなにみんな音楽好きで四六時中聴いてるの?って、ほんとに率直に問いたい。何のてらいもない、皮肉でもなんでもない問い。本の内容は、理念的にはラディカルながらも、既存の音楽業界は(というよりは音楽家は)ウェブ、コピーデジタルテクノロジーとどうやってうまくやってけばいいか、むしろそれらとうまくやらないと損じゃないかって提示してて、その点でピンポイントに現実的なアイデアもあるかと思う。形式的にリフレインが多いからあるいは強迫的でもあるけど。いまだ巨大な既得権との権利の折衝、新しい適応的なビジネスの業態において今は過渡期だから、自分はちっぽけながらもどうアプローチしようかなあって。日本の業界固有の問題は何だろうな。ともあれ、音楽で飯食うとして、やっぱ色々知ってないとだめだーってところ。レコード会社に囲われてる音楽家ストライキってあるのかしら。そんなに音楽家の方強くないのかな。んーピンと来るところと来ないところのギャップ。