おわーい

OKPさんに星貰った!やほ

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んー、なかなかまとまらないのですけれど、いつも通りつらつら書こう。
ちょっと淡白だけれど、音楽の(に限る必要もないかも)理論を既存の作品(実践)から分析され抽出され整合性を与えられた体系、データベースの総体とひとまず仮定する。卵か鶏かどっちが先でもいい。理論は実践にフィードバックするし、逆もまたしかり。
理論の価値性については難しい。ことポピュラー音楽に限っては、「諸」理論というほど、音楽理論が画定したものとしていっぱいあるかというと、そうでもないでしょう。つまりは、価値性の比較優位というような話だけれど、この相対論的な見方はきっと西洋近代的だ。アラビア、アフリカ、インドや東南アジア、ヨーロッパでも中世やそれ以前なら、音楽が聴かれるシステム(社会構造、民族性、宗教性、価値体系)が異なる、ということはそれらに関する知識によってこそ追えることではある。それらが現行一般のポピュラー音楽理論とどのように関係できるか、という問いの限界。
ただ、一つ言える、それら音楽は人間に聴かれるので、少なくともその端緒からして、人間の感官−聴覚・生理、感受性、そしてそれに対する、物理的な音響のありかたを問題とすることができるのではないか。人間の耳にきもちいい音波はそんなにぶれないのじゃないの、と。多分、耳の聴覚の身体生理の構造はそーんなに劇的には変わってないだろうなあ。じゃあ、感受性、あるいはセンスという意味での感性、音を音響を価値づけるそれらはどうか?音、音響の快の制度の変遷。
あーこの話は長い。

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今思ってること
・理論の身体化、つまり楽器演奏という身体の記憶(という比喩)のための定型パターン確立
楽器演奏を身体化するテクノロジー。技術が反復可能性に規定されるなら、もちろんやっぱり反復練習が大事という、当たり前。ただあくまで「理論」にアクセントがある。逆から考えよう、想像しよう。「何がベスト?」これ自体が難問であり固定的でない性格の物事、問いであるのだけれど、それでもなお、何を演奏できたら、どういう実践ができたら、よいのか?というところに想像力を傾けてみる。ギタリストなら、ピアニストなら誰みたいに弾きたい?つまりそれが具象化された楽器−理論の身体モデルですよ。
ジミヘン、ジャンゴラインハルトや、ビルエヴァンス、コルトレーン。完全コピーなんてできないし、しないし、できないしできない。いいんだそれは。まず、彼らの演奏をよく聴く。それこそ覚えてしまえばいいのだけれども、それとてもまったく簡単じゃない。聴き取る耳の問題、記憶の問題、理解の問題、知識の問題、など。何を考えてるか。彼らはまさにその演奏をしてるときどんな事考えていたのか?どんな内面状態だったのか?先鋭化すれば、どんな理論−楽器演奏身体モデルだったのか?という話です。もちろんその実証的な意味での心理的事実?のはなしではなくて、それをいわばわがものとして想像するわけです。それも大変だ。まあ以上の4人は著名だから、それぞれの分析書があるだろうな。そういうの使うのもいいのだけど、何か違う気もする。うーん。やはり自分で分析−価値化しないとダメな気がするからだろうか?
定型パターンのはなし。例えば、「ジミヘンコード」って有名?な概念、コンセプト、イディオムがある。それはジミヘンが多用するから有名なのかしら。コード「E7#9」。構成音でいえば、EとG#とBとDとF##。6弦ギターなら一番上6弦から、開放弦0フレット、7フレット、6フレット、7フレット、8フレット、開放弦0フレット、と。鳴ってる音は、E、オクターブ高いE、G#、D、F##、更にオクターブ高いEか。で、なんで、理論的な構成音と違うの?つまり、Bがないじゃんなんで、って言われたときにどのように答えるのか?5度のBの音は省略していい、省略しても「わかる」っていわれても納得できない。ギターという楽器の構造と弦のチューニング、加えて人間の手は2本指は各5本しかない、体がかたいなどなどという身体構造が物理的な制限で、Bを省略せざるを得ない、っていわれても納得できない。そんな問いをもたずにジミヘンぽく弾けるようになりやがれ!というのはもっともだ。
定型パターンは反復練習の目的である。それは分析、抽象の産物であるし、音楽理論の構成物とみなされる、価値のパターン。それら価値のベストは何か?きっとジミヘンコードをそれだけ単体で弾けても技術といえないだろう。適当なとき、適当な文脈に、ある一定の音の流れで文脈を読んで、それを用いることができる。あるいは革新的に、それこそ既存の理論を脱する時に、用いる。するとその時やっとそれは理念のレベルで技術といえそう。だけれど、これはリミットをどこに設けるかという現実的な判断との兼ね合いでもある。音楽理論が技術という実践において生きる瞬間。

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ただ分析、抽出って切り離される側面があるから、そういうのをどこで回復するかということにはなる。つまり
・理論の実践化、実践の理論化
に関してだ。戻った。つづく