ほいほい

自分が関わらなくても音楽は鳴ってる。「DJ文化」「ディスク文化」という概念や成立状況からやや悲観的に思うことは、音楽はもう飽和しているということ。音楽はたくさんの人が鳴らしてきたし、今もそうだ。もう少し現実的に、あくまで「作る」という行為を行う立場のものとして、とおこがましくも言ってみると、今までに作られた音楽の作品を古典とすることで、もう過不足ないのではないか、と。だって、きっと1億曲は音楽あるんじゃないの。まだ増やすのって話です。何目線なのだろう。無論、誰がいつ作るのか、とか、ファッション性、時代性少という話もある。でも少なくとも自分は、それらが飽和してると勝手に認識したところで、その上で更に何を作っていけるのか、という点に実存をかけざるをえない。そして、そういう事情は同じような立場のものにとって、つまり新しく何ごとかを作らんとするものにとってシニカルにしろ何にしろ共通感覚なのではないか、と感じてる。

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著作権が自明である、その発生が自明であるということは気にくわない。権利が保障する創作、インセンティブとか、ひとまずファックと思う。そういうのは、作るから作るという同語反復にフタをする政治的なポーズで、ポーズはポーズでしかないはずなのに。そういうのがプロフェッショナリズムなのか?オリジナル神話もパクリ糾弾もあほ臭い。といっても僕はそこから抜け出せない。つまりそれらに対する反感は少なからずいや大いに僕のいえばロマン主義的な理念的な物言いでしかないのであり、なので何ら特権的ではありえない。音楽は文化や社会や経済や他の物事大きなそれらと密接に関わっている。それは状況だし誰も抜け出せるわけではない。だけど、ファックと思ってる。ファックと思ってしまい申し訳ありません。