僕はジャズの形式的な部分借りるとしたら、7割8割はジャンゴとグラッペリになるだろうなあと思う。あまり歴史を知らない。曲書きとして、アイデアの人として、ビルエヴァンス、コルトレーン、あとギルエヴァンスかマイルスかは好き。演奏家として好きな人はもうちょっといる。バドパウエル。すごいなと思う人はもっといるけど、みんなすごいし。チャーリーパーカーはわからない。すごそう、としかいえない。聴いてないけど、ガーシュインとかデュークエリントンとかはやはり曲書きとしてすごそう。セロニアスモンクとかキースジャレットも好きな曲ある気がする。手持ちは少ないわけだけど、その上で借りるなら、ジャンゴとグラッペリの、アドリブ演奏ということになると思う。彼らの分析はしてない。シンプルに、コードの流れ曲の流れに、いいメロディをアドリブで入れるってことだけ。アドリブって作曲だし。アドリブ−作曲−演奏が好きなのだろう。

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コアなアクチュアリティというものがあるとしたら、当然イデオロギーめく。ある価値体系、観点から臨むわけだし、それがそういうものとして共有されるのだろう。それは洗練、先鋭の野蛮みたいなものだ。価値のヒエラルキーは色々排除しながら成立していく。で、それの、そういう事態の良し悪し自体はどうでもいいし、そんな良し悪しをいうことに意味があるとしたら、行動の理念とか、目的とかのそれとしてだろう。ひかれものの小唄、負け惜しみ、恨み節みたいになるのか。補足だが、ファッションやモードは固有だと思うけれど、どうなのだろう、わからない。色んな側面があるように思う。こうは言える、ポップはイデオロギーで、ヒップやクールはファッションやモード。外から見たら中身は一緒かもしれない。でも、自分がどこにいるのかなんて誰が決めるのか。政治的な責任はいずれにせよ発生する。自分の立場を積極的にせよ消極的にせよ決めることになる。何に対しても「ノン」でも、あるいは「人それぞれ」でも別にかまわない。それがそれを言う人の政治的な立場になる。ここでの「政治的」は広い意味だ。人間が価値を持とうとする時に関係してくる事柄としての「政治」。イデオロギーからは逃れられない、なんていうのもきっと古臭い。ただそこで個人が何をするか何ができるかのヒントはある、と思うけど、わからない。「個人」?色んなレベルで問い続けること、ゆれ続けること、反復する、生成する、運動する、動く動く動く。ぼくはいつまでも井の中の蛙だ。謙虚になり非謙虚になり、また謙虚になる。「謙虚」に収縮し続ける。

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たまたま謙虚な状態を見つかったら、あの人は謙虚だなあって思われて、そうでないときはその逆になる。後者の場合、チャンスが減ることになったりするので気をつけて。阿呆臭い。愚痴ぽいな