仮にFという女の人。初めて知ったのはいつか、忘れた。だだっぴろいネットの海の話。
知ったと言っても、いっぱしのコミュニケーションにほとんど必然的に伴うであろう直接に常識の事柄ではほとんどなくて、つまり全般的なバイオに関することはそれとしてはほとんど知らなくて、それでも発言から読み取れる断片のパズルを飛び飛びに並べたら、少しその像が何であるかわかるかもしれない、そんな程度。彼女とは少しだけであるけれど、直接言葉を交わしたりした。それで、さて、彼女の実像を知りたいのか。それに関してはがつがつした欲求はない。いつまでもどこまでも透明に塗っていく、無色の関係のそんな比喩。
奇妙な持続の、コミュニケーションだ。これをコミュニケーションと呼んでいいなら、とても広範な概念としてのそれであるだろう。そしてそこで、彼女が割と長く病身であることを知った。情報のかけらがぽつぽつつながる。同情も感傷も強くわく余地のないかけらが。
どこの誰とも知らない誰かの辛さを、わたしは何にも変えられない。喚起されるものがあってもそれは遠くでうち続けられている心臓の鼓動だ。それはそれで、さびしいといえばさびしいものがある。彼女は大抵冗談がうまいように見えたので、それによってか彼女の話のどこまでが本当かわからない。でも実際本当かどうかはどうでもよくて、ただただ彼女の発言を読んでいくだけだった。彼女の発言でありさえすればよかった、のか。
特別に言いたいことはない。すみません。淡々と書こうとしたら想像してた以上に淡々とした。彼女がよくなればいいと思う。それはやはりそう思う。だけどこれがどうも一般的な物言いで、腹が立つ、とまでは言わないまでも、彼女とのよくわからないコミュニケーションにそぐわない気がする。彼女に少し何か言いたいのだけど、何をどう言えばいいかよくわからない。コミュニケーション、というとどうも大層な気もしてきた。わたしは彼女の発言を少しばかり知っていて、それらをちょこちょこ記憶していて、極たまに彼女の人格を統一したり想像したりして、ネットの向こうに当の本人がいるという事実より、それも含めた何かしらの事態の全体に愛着を持っている、といってみる。