ひどいし、シラフ

愛さるがドラマ出演http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080923-00000008-oric-entでやほー。プリティな子だな、と画像を見て思う。ずっとどこかストレンジャーだった、少なくともそんな風に見えることの多かった愛さるがひとり娘。を冠にニュースになる、不思議といえば不思議なことなのだろうか。
ずっと同質である娘。を想定する必要など無いだろう。必要は無いが不分明な感情はある。ずっと覚めそうで覚めていかない夢の澱をまとうように、私は自明を失調した正体不明だ。年を重ねていくし、世界は歴史は変わりつづける。しかし同時に同じ力強さで、年を重ねないし、世界は歴史は変わりつづけない、それらの均衡があるように感じられる。いや均衡と言うほどはっきりした区分があるでもない。もうちょっというと、今どこを飛んでいるかにも増して、出発点にこそ執着しているようだったりして、それは精神に余裕があるなら、少しユーモラスな事態ですらあるのではないか。一般論的に言えば、人は変わるものと変わらないものに引っ張られるということで、尚付け足せば、そこには何かの鈍磨や失いがあるということ。何にせよ、人間のとても普通のことだ、と言い切る鈍感や社会化や、何やかや。
変わってるのに変わってないと強弁したり、変わってないのに変わったと嘆いてみたりする。それらは生活の機能だろう。強制的で憎い、だけでなく、尊いのかもしれない。そこから誤差がなんとも言い知れないずれを溜めていって、そしてそのずれは都度都度でそんなに簡単に扱えるものでもなくいずれも不可避で、結果溜まったらどうなるかはわからない。溜まっていくだけかもしれない。偉大、だと思う。何でもほめればいいというものでもないが。そして私はモーニング娘。高橋愛のことを考えている。娘。の愛さるのいとしいこと。彼女に仮託して何事かを喋ってる。
梨華ちゃん卒業のタイミングで代わりに愛さるが卒業してたらどうだったろう、と考えたことがあった。そういう風に考えたことはそれまでもそれからも無かったと思う。いつも受動的に楽しんできたから、そういういろいろな力学が働く事案、ことに芸能界であるので非対称だから(アナクロか)、そういうのはどうでもいい領域だ。そのピンポイントでは思いもかけないし、なるようになってくれれば、なるようになる。関係ないもの。消極的といえばまあそんなところなのか。何であれ、そう考えたのは、愛さるへの批判的なあるいはアンチ的な文言のグロテスクさに嫌気がさしたから、というようなことからだったと思う。それ以前からのことではあるとはいうものの、まあ総じて激動期だったから特にそうだった、とあえて過去形で表現してみる。すごく偏った動機だし大局に触れていないであろう事からも偏った感受だと思うし、今もまあそれは変わらないかもしれないし(というと身も蓋もないが)、わからない。ただ不幸が渦巻いていて誰も幸せでないとは思った。みんながしんどそうだったし叫んでいた。それが愛さるに集中する、なんてのはお門違いもいいところかもしれないが、何かしら彼女にシンパシーがあったし、それが発露したのだとも思う。
愛さるへの偏見を重ねる。愛さるはかわいそうだと今も思っている。かわいそうなんて言い方はまるで珍妙だがそれでもどうにもぴったり来るようで仕方がない。そしてこれが私の偏見そのもので、同時に、懐古の総括なのだと思う。ありし日のモーニング娘。をずっと重ねている、といういいかたはただの表現に過ぎないけれど、百歩譲って昔がよかったかどうか、楽しかったかどうかはともかく、昔の彼女たちのことをふと思い出す、思い出しそうになって、何か違う、と反射してしまう、というのが本当のところだ。今か昔かではなく、今も昔もで、今でもなく昔でもない、緩んでいく何かしらがある。思い出すことなんて、いつもいつだかのことが対象である、という理屈以上のものを感じているように思う。愛さるはそういうものの焦点の象徴だ。彼女はいつまでも目がクリクリのプリティで原始的エロスで唄がうまくて…という形容の終端に、彼女はかわいそうだと、影を見てしまうと、そんな風にひどく彼女に押しつけている。