推しメンになりたーい!あるいは、推しメンに似てる…!の楽しさ。推しメンは応援してる、好いている、事情はともかくヲタの主体的に選んだ対象であるところのアイドルメンバーという理解。DDは「誰でも大好き」の頭文字でそういった推しメンがいない人、っていうところか。今更他人事ぽく書いた。ヲタ尺度と恋愛尺度(というものが一としてあるなら)の奇妙なリンク。それは一途さんか浮気さんか、という風に描かれるなら、どうか。一途えらい!浮気ダメ!という価値の図式。その上でヲタ尺度にはきっと強力な他の要素がある。偉いヲタはその一途さなら一途さに費やした人生量が違う!というようなヲタの価値。これはアナクロなヲタ像でしょうか…。それはさておいても、一途やら浮気やらの道徳的価値とでもいうようなものがどうも両者リンクしてるのじゃないかしら、と今思ったからつらつら書いたけれど、どうなんだろう。どうでもいいか。僕は多分DDなので、時々悪いことしている気分になります。おおげさにいうと。ん?矢口?好きですよ?亀ちゃん好きですよ、松浦好きです、たかしゃい好きです、続く…という長広舌を避けるために、DDと名乗る…!いやDDとしてもダメなんだ、位階が低いんだ、ということを気にしているフリをしているというところに薄ら寒い悪意が仄見えるのであったとな。
それた。推しメンになりたーい!あるいは、推しメンに似てる…!の楽しさは、「女の子」になりたい、に似てるか。さっきの話からすると、「感じない男」として。いや、女の子も「女の子」になりたいと思ってる、そういう事象があると思ってるので、「感じない男」固有の問題ではなくなる。文化の話に落とし込みたいと思ってる。性はセックスは確かに強力だけど、あくまで一面的じゃないか、あるいは「性」って所詮文化でしょ、と。セックスや本能が失墜していく、いや、進化の過程で淘汰されるとか?だったら面白いじゃありませんか。つまり、文化的にそれらはアウトだし、生物的にもアウト、という具合。文脈は異なるが、丸山圭三郎の本能−欲動論はピンと来る。全部読んだわけじゃないけど多分、人間は言葉を使用するようになってから、本能がぶっ壊れて、その根っこはあるけど、言葉、その体系の威力の方が、あるいは「本能的」に働きますよーってはなし。ピンと来るから何?というはなしであるかしら。広く人間の言語、記号の話に通ずるであろうのでここだけ恣意的に取り出すのはあれだけど。まあ、強引にかつ飛躍的にいうと、推しメンになりたーい!で人類文明滅んでもしょうがないか、ぐらいの勢い。で、読み替えるに、文化的に感じる男でしかないところの「感じない男」が、彼の環境であるところの既存の社会性を、社会一般を損なってしまう、その構成員たる誰かを傷つけてしまう、その一生を台無しにする恐れがある、として、先ほどの本の著者の主張は「感じない男」を「感じる男」にするのでなく(それは難しい)、ただそのこと「感じない男」であることを「引き受ける」、といったニュアンスで僕は読んだ。「感じない男」の供物になる女性性に何とかやさしくアプローチできやしないかと。実在する誰か女の人が辛い思いをするというのは本当に辛い。でも、これどうにかなるのだろうか?と思う。絶望なんかではない。あるいは「性」だけの問題とするなら、実は話は少しは簡単かもと思ったり。やはり経済、商業含め文化が「性」と交差する地点があって、著者はそこのことをも言わんとしてる。