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感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

最後の章まで読んでこそグッと来るかも。
「男かくあるべし」でもなく、フェミニズムでもなく、一般論からでもなく、著者個人のセクシュアリティ開陳で、「感じない男」その生態を描いていってる、ってことでいいのかなあ。で、まさにその開陳部分でグッと来る。性癖の告白。何で最後の章まで読まないと、と留保したかというと、その「感じない男」の諸事象「ロリコン」「ミニスカ」「女装」などが根本的に『性「欲」』に帰結する問題として書かれているから。性的な欲望。それはそんなにピンと来ない、というのが僕のセクシュアリティの線引きなのだと思う。説明の根拠としての「本能」と、例えば「文化」を比較してどっちが優位かというと、どっちもそれなりに強いんじゃないか。さておいて、であるのに、最後の章でなぜか腑に落ちる感じがした。つじつまが合った。性癖の孤独というか、セクシュアリティのそれというか、そういうのを感じたのかもしれない。感じない男の事象の分析より、感じない男自身の悲痛な叫びに、感じるところがあったのだと思う。
今現在、懐古的な「男らしさ」が機能する時場所もある。でも多分それらが機能しない場合の方が多い、そんな風に勝手に感じてる。いやどうなんだろうか、どうでもいい。どうなのかどうでもよくてもそれなりに生きていける。あくまで「それなり」としておく。でも多分今より「それなりに」生きていけない時場所があった。きつく機能していた時場所があった、そう想像してる。社会関係的に強制される、一般に疑う余地なく約束されるものであるという意味で、制度としての「男性性」があって、そこからドロップアウトする「感じない男」。感じない男は男性性として性を感じない。女性性に負い目があるか、女性の性に対してうらやましさがあるか、女性より「感じない」ということが切迫した意味を持つかというと、僕はそうでもない。ただ「女の子」になりたいというのはわかる気がする。これはでも都合いい「女の子」「イメージ」ですよ。多分存在しない「女の子」。アイドルになりたいってのもまあ同じ意味で、妄想の濃度程度も同じような気がするが、どうだろう。