G愛い

aikoを聴いてぼんやりと浮かべる、音楽って無条件で楽しいとは決して思わない。総じてそういう感情や、感情が発生するような生活と乖離してるのでは、という問い、懐疑がある。ひとまず穏当な言い方をしているつもりだ。懐疑だし、そう望んでいるし、いずれそれは諸価値の破壊につながることになる、と考えてる。まだ穏当である。何にせよ胸のうちだけで望むのは思うのは勝手で、そしてそうあることを開き直ることも、そしてそしてそれらの勝手の一連が、厳密にその限りで社会的に容認されることも、その依拠するところやスケールこそ違えど、やはり勝手の範疇であるだろう。うっすらくどく言い訳じみた言い分になりそうだが、そのぼくの勝手はそれ自体ではまったく社会的な価値でないし、ぼくはそうあることを求めるものでもない。ただの独善的な(とても都合よいように言えば形而上的な)独り言だ。
もう一つ都合よく表現してみて、それら独善を純粋さとするなら、それはきっと現われとしてエゴっぽく振舞うし、いずれは狂気に通じる。この場合狂気とは端的に社会的でない、といったようなことだ。非社会や反社会といったことの別は自体で重要であるだろうけれど、ここでは置いておく。翻って、きっとぼくは多層的にあるだろう文化の諸領域を恣意的に混同している、少なくともそう見えるだろう。つまり文化の側面から見れば、音楽は色々あるわけで、それらを一つにする必要なんてないじゃないか、ということだ。ある文化的な領域で当然求められること、価値が、別では全く考慮されない、そんな事態はとても日常的なものとして想像されうるだろう。なるほど。
妄念を披瀝する。音楽は物理的な音波で、そのまとまりだ。媒質がないところでは、聴覚神経を刺激しないだろう。まとまりとまとまりの差異だけが文化的事象として扱われる。音楽の構成の単位は文化の恣意だ。そして差異が文化によって拡散していく。差異を差異として認識できるかどうかは恐らくあらゆる意味で人間の本分でない。妄念を己で妄念とするエクスキューズは薄ら寒いが、尚薄ら寒く、これは超越的な視線でないということを付け加える。ぼくは歴史や物語、文化から決して逃れられないだろう、と。

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楽しくないなら、やめれば、と言ってやめられるものでもない。ああ何だ、ただの愚痴なのか。