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権利者業界とコンテンツテクノロジー業界の経済ケンカで、消費者はいやおうもなく引きずられる、というのが一つのイメージ。そのケンカにお金を落とすと想定される消費者パワーのどれほどであるかはとりあえず置いておく。そういう経済構造にどれぐらい関与できるか、ということ自体は大きな問題で、いわばこれは道徳の話になったりするかもしれない、つまり、大局にどのようにコミットするかという政治的主体の信条や姿勢、行為に通ずるものの象徴としての「道徳」である。どちらにしても、主体性をどこに見るかというわけであり、一面性から脱せられるとは思わない。自分はどこかと言えば「消費者」だ。で、そのケンカどっちにつく?と聞かれたら、そりゃいい方でお願いします、より即物的なものを欲することになるかもしれない。
分が悪いのは権利者で、それはもうまったく明らかだ。決定的に権利を保守防衛するテクノロジーが「無い」から。この次元だけで極端に言えば、いたちごっこの様相であるだろうけれど、現実は勿論複雑である、例えばグレーゾーンという便宜はやはり機能的であるし、またそれより何より、現場で狭間で均衡、趨勢に関してギリギリの折衝をしている、バランスを取らんとしている方々がいる。陰謀論を持ち出すまでも無く、政治力学の現実というものはあるだろう。法や規範の次元も強力にある。より唯物的であるところの、経済や、技術だけではない、多層性多重性があるだろう。それを踏まえていうに、権利者に分が悪いということは直接的でない。
昔のビジネスモデル、うまくやれていたそれなら尚更捨てるに変えるに大変だろう。恩を仇で返すことはきっと簡単だ。つまり、かつて豊潤であったモデルの産物文物で育ったわたしは、そのモデルの死に間際に対してとても薄情であり、見捨てるにやぶさかでない。そういう産業が滅び去ってしまっても別に構わないとすら思う。本当の文化、というものがどこにあるか、それは多数決できめるようなことではないし、誰かにわかるということでもないだろう。この言い方はとても一般論的だが、やはり一定の説得力を持つと考えている。ナイーブついでにいうと、昨日文化であったものは、今日それとして交換されるとは限らないわけだ。ましてや明日からはどうか。投機としての作品対象は未来に深淵を開いている。よくいえば、ものすごい可能性に満ちている、ということになる。
ありむらさんの記事http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080620/1213943040や、コンテンツ制作者は是非ともクーデターを - 雑種路線でいこうを合わせてみて思ったのは、作り手の供給過多だった。これはずっとよく言われていることで、ひとつは「作る」ということが産業化や技術化でその閾値を変えたということがその成り行きの根拠であるだろう。ともあれ、そんな状況で一面をいいあてるのは、「いい作品は売れる」と「売れるのがいい作品」というよく知られるペア。それぞれ対偶とったりして、真理を垣間見せてくれる。皮肉ではない。その都度都度でいつも多義的なもの多重的なものに絡めとられるわたしたちであるけれど、正当化の言説はそんなに多くなくて、着陸する場所を見たら、ああやっぱりあそこか、というような、ことだ。このような産業の歴史、そこにおける言説の歴史はきっと、こと時間におけるスパンに限れば浅いものといってみてもいいだろう。
浅いからこそ、新しい事を考えられる。「リスペクト」って迂闊には使えない概念だ。新しいパトロン主義というようなものを想像してみる。それはマスコンテンツではないからこそ、デジタルコピー技術があるからこそ、コミュニケーションコストが下がったからこそ、成し遂げられることがある、という発想から出発する。経済的には特殊で規模の小さいものに限られるかもしれないが、いわゆる「リスペクト≒尊敬」というにまだ固い「何か」で繋がるような「作る⇔受け取る」が想定される。派生的に、あるいは別の大事な側面で、「受け取る」ことの「作る」を想定する。それは、何かを受け取った人がその「受け取り」を現前表明などすることで、更にそのことによってその人以外の人に「受け取られる」、「受け取られる」の連鎖。理想的に描きすぎだろうか。もうやっている人はいる。それらはすべて実に何も新しい事でない。実際やってきた人はたくさんいたし今もいるのだと思う。レディオヘッドのこのあいだの実験は巨大なそれであったし、既存の方法から鑑みても未曾有の成功だっただろう。対価の脱規格化というものは、まず効率から離れる、冒険のようなものに見える。冒険はおよそ剣呑だ。すべてがそこに収斂する必要は無い、要は、別の道、方向の可能性の話である。リスペクトもきっと、そういった新しい価値の可能性をもいいあてる概念になれたら、もっといい。