うーん、ごっちんと呼んでもいいのだろうか→ごっちんと呼ばせて→ごっちん!

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バチバチのフラッシュで、怪しげな紫で、ゴージャス。ごっちんはいつからか何にでも化けられるというか、同化できるというか、それがたとえ見かけ上の現象に過ぎないとしても、変幻自在であるような、そんなイメージを持っている。それは彼女の内面が器用か不器用かといった話ではなく、まったくイメージの次元で、「あれかこれか」「あれもこれも」にスッと、ただ、なってしまう、存在の仕方。だから、これがエイベックスパワーかという絢爛豪華のサイトにおいても、おさまりの悪さなんて微塵もなくて、ずっと飾ってあったような絵の内容の一部みたいに、つんと存在している彼女の名前は後藤真希でした、とさ、でも飼うにはちょっと獣みたいだな、獣性なんていうとちょっとそれは違うような、洗練されたそれでいてなおかつ実に自然な何かがつま先から髪の先端まで漲っていて、重厚に鋳られた鋼みたくもある。鋭いよー。
ごっちんの存在の仕方から思うに、話としては続きがあり、継がれる。いつもごっちんは最高の何かになる、もしくはなってしまう、そういう風に外側から見えるのだけれど、いつもいつもごっちんはどちらかというとすぐにその何かを持て余してしまって、出て行きそうになる、そんな風な、何ものもその存在を継続的には囲えないような、本人がコントロールしてるのかというとさりとてそうでもなさそうで、やっぱり自身もその存在をも持て余してしまっているような、そんな複雑な形式で説明してみても、ああだからなんなんだ、想像の域を超えることなく空ろであるなあ、と反省しながら、記述にこじつけ落とし込んでみた。ぼくはごっちんではない。それは美しく、決定的なことですよ。
ハロプロからエイベックスに行く人を想像してみてください。それだけで何だか不思議ではありませんか。ぼくはとても不思議な気分になった。エイベックスがしている活動についてはまあほとんど知らない、だからこそかイメージが純粋ながら固定的で表面的なものに留まっている。それで、じゃあ、なんだそりゃ、ハロプロからエイベックスって!そんなことやってのける人間はそうざらにはいない、と思う。いや、何かごっちんに極度の期待からのプレッシャーをかけているかのごとき文言で、いやいや現実的に威力があるわけでなし、もとより特にそんなつもりなくて、ただ単に不思議としか言いえないし、それでいい。多分ですね、エイベックスっぽいごっちんって5秒ぐらいじゃなかろうか、それぐらいしか存在しない、というか、要はやっぱり後藤真希じゃないか、と呼ばれるであろうところのものを、ぼくは変わらずごっちんと呼んで、それで何も変わらないといいますか、変わらないというと語弊も大いにあろうというものだけれど、それでも、かわいいごっちんでふにゃふにゃしたごっちんで、かっこよかったりクールだったり、面白かったりして、変わるとすれば、活動期になってエネルギーの開放に集約する、それらを見聞き感得できる、ということ。この文章を書き始める前に、ごっちんってずっとこれからも呼びかけ続けてもいいのかしら、と少し考えたのだけれど、ここに至って、初めぼくには5秒ぐらいエイベックスの後藤真希だった人が、やっぱりごっちんごっちんじゃないか、ともはやごっちんごっちんになってしまって、エイベックスかハロプロかといったような問題設定は現れる前に消え去り、とにかくそれは何から何までフライングだなあと、急ぐ必要も無いのにあわてものであるところのぶつくさとして終わる。