くらい

余裕なんて誰にもないともいえる。自分のことで精一杯だ。本当にギリギリのところで、自分の大事な人間にまたは物事に思いをいたすことができるかもしれない。愛しむことが可能かもしれない。そしてだからこそ大事にするのはとてもはかないことだ。それは無力であるし、選べないものを選ぶことのように感じる。
誰も保証などしてはくれない。時間はたっぷりあって、その積み重ねである歴史が様々の正当化の言説、理念や物語などを生み出して伝えてくれているとしても、結局のところどれを選ぶかはひとまず自分に委ねられている。その上で実は何も選べない、選ぶことができないということもよくある。こういった事態を含めてのはかなさは、結局何かを大事にすることは一体どういうことか、という問いへの回帰を繰り返し促すようでもある。
件の殺人者と同じであるように思えることがたまらなく怖いから、自分または自分たちとの違いを執拗に見つけ出そうとする。いやなに実のところ、ほとんど何も変わるところはないのではないか、と感じ入るところもあるかもしれない。彼は誰にも大事にされなかったし、誰も大事にしなかった。本当にそうだろうか。それはただたまたま何も当たり前でない世界の真空地帯にぽっかりはまりこんだだけだったのかもしれない、等々。不条理と表現しても浮かばれるものが何も無い、というシニックも切れがない。漠然とした不安であり、得体が知れずおぞましい。
ところで、法と存在は次元が異なる。端的には、法は存在に直接関わらないということである。何かしらの規範的言説が、存在の次元において私の行為を遂行したり抑止したりすることはできない。当たり前と言えばあまりにも当たり前である。そこでは法の内面化は事後的に確認される。この限りで「なぜ○○をしてはいけないか?」という問いは無意味になる。
自分の近親者が傷つけられたり殺められることを想像する。私は、その時の私の内的状態を、怒りや悔しさで満ち満ちると表現される状態になるだろう、そのように予感のように想像する。きっとそれ以上のものであるだろうとも思う。傷つけ殺めた他者を殺しうる。その親族までを殺しうる。理由などない。感情によるものでもない。あらゆる規範は無意味であるとも全く思わないしそういうことを言うのではない。ただその他者を殺しうる。許せないとか、復讐、敵討ちといった表現とは別に、ただただ殺しうる、という事態を想像できる、ということだ。そして私が私である限りで、それは私の責任であり、つまり私は他の誰でもなく私であるということがそのまま私の責任であり、倫理である。倫理的にでも誰かを殺しうる、という可能性が一体何を示唆するか。倫理の発生はそこにある既存の規範の破れにこそあると思う。
運命や必然、偶然でも運でも、物事を正当化するには概念として非業ながら必死の知恵である。時間は流れていく。一体何ができるのだろうとつぶやくことは、何もできないことと何も変わらないかもしれない。この今の不安定な感情や気分、記憶が薄まり、去れば、またいつもの当たり前が生活がきっと浸透する。当たり前が機能しないと生活なんてできはしない。その当たり前がいかに脆弱で見かけだけのものであるとしても。
現況に適合する価値が手元にないのなら新しく作るしかない。まだ知らない価値を知るしかない。