生活保護VSワーキングプア (PHP新書)

生活保護VSワーキングプア (PHP新書)

かなり煽り気味なタイトルで一般に読む敷居あげてるかしらと感じたけど、内容は整理されてて、結果、テーマがタイトルを逆説的にしたてあげる。戦略的な。
生活保護の実態の描写から著者が浮かび上がらせようとするのは、装置・メディアの強大な印象付けと、実際の行政、福祉の現場感覚の恐ろしいほどの乖離。そこにおいて個と公のフレームで見ると、個はやはりどこまでも個であり、公がそこにどのようにアプローチしていくのか、ということになるだろうか。抽象するにこの根本はそれ自体深遠な問題だろうけれど、「生活保護」一般にまつわるイメージの二元、つまり、生活保護に関する行政の怠慢・失態失策を見て取ることと、今ならいわゆる「自己責任」論を筆頭とするだろう生活保護自体のネガティブイメージという二元、という個と公の図式にするなら、どちらにもやはりネガティブのヒステリックな自走を感じることができないだろうか。
話としては、真面目な奴が割を食うという風でよくある悲惨。対症療法じゃ駄目なのはみんなわかってることなんだろうけれど、どうしようもないという無力感もある。より個に近いところから生じる歪みが公にフィードバックされ悪循環してしまうシステム。前者の歪み自体を根本から無くそうとすること、「生活保護」にまつわる個と公の問題をどこかのレベルにおいて(国家・社会のレベル、小さい共同体のレベル、個のレベルなど)、知識を得、個々で考える、あるいは皆で共有すること。どちらもとても望ましいがどちらもとても困難だ。それでも後者はまだ可能性を考えられる。
決定的な契機は、生活保護を受けにくい若者の経済的効用・還元、それがフォーカスであり、なんならそれはセーフティネットというよりは、スプリングボードとしての生活保護の可能性である。読んで二つ思ったのは、個が個として考えるということ自体と、それから、どれぐらいの杞憂かわからないが、機構としての経済はそれほど自明に継続するものではないだろうなということ。経済機構のコントロールは控えめに言っても難しいだろうから、若者のスプリングボードとしての生活保護は投資としてのリスクを当然それなりに負うことになる。で、前者はライフワークの話。