I・T・S/I・T・S

新曲の「きずな」をitsで。
テレビで見たよりは悪くなかった。曲自体は別に面白くない。2回目のサビ入るところのベースとか、同じくサビ終わりでクラップが入ってきたところは面白かった。一般に唄を聴くに歌詞が大事なもの、プライオリティ高いものだとしたら、この唄が歌詞が心に響くのはピンポイント過ぎると思う。要は歌詞がうるさいって話だ。うるさいし、ぼんやり普遍的に過ぎる。そういう形容自体がいいか悪いかは、聴き手がどういう風に唄を聴くかによって判断されるだろう。唄番組、テレビ画面では更に、テロップで歌詞を、その効果を押し付けるものとなったのだと思う。だから僕は、内容はともかくもその出来事、演出自体がすごく嫌だったのだと今振り返る。
でも翻って、唄の、とりわけその歌詞の独立した機能性については僕はわからない。演歌とか歌謡曲の領分というものを想像する、また、そういうものがかつて豊かに機能していたことを想像するのだけれど、それは何かしら区分けとして有効ではありえたとしても、それだけで恣意的な説明の域を脱するとは思わない。
唄も経験だ。経験は何か、というとそれは同定するにとても難しい。単に時間軸で言えば、瞬間でありながら、時系列、歴史のきらめきを持つような連続のイメージ。しかしその豊潤は時間の軸に汲みつくせるものでないと思う。その上で、何かの集合としての時代の経験はきっと一つの可能性としてあるだろう。つまりそれは、そういう風に表現される限りのものとして、やはりある、ということだ。ただし、唄が経験として、より豊かに機能していた時代があった、という懐古に、懐古以上の意味を持たせるつもりはない。繰り返すに、唄は経験だ。そして分析的にはひとまず、歌詞はその一部に過ぎないと僕は考える。
新曲は今の彼女がどうしても唄わなければならない唄なのか、なんて問うのはナイーヴだろうか。例えば、今回の新曲はもっと年とってからでも唄える唄ではあるだろう。だとすれば、どんな政治的な力学が働いたにしても不幸に思えてしかたがない。不幸と言う表現は全くおかしいかもしれないけれど、今しかできないことを大事にすることの愛おしさというものがあって、それを少しも斟酌しないとしたら、やはり辛いものに感じる。でもじゃあ彼女と音楽の幸福な関係ってどんなのだろうかというと、具体的にはわからないのだから、勝手だなと思う。それが誰にとってもそうなのかというと、そうではないだろうと想像したりする。どの経験も自分を正当化する。つまり僕は僕の一つの経験から正当化を始めるしかない。彼女はどんなことを考えているのだろう。彼女はプロの歌手だし、そういう世界の人だ、だから僕と見ているものは全く違うだろう、それでも。これはミクロの話である。
いつだって唄を唄うことは難しいことだと言える。何もしゃちほこばるわけではないし、そういうつもりもない。でも、個々の経験がテクノロジーによって確実に個々の経験になってきているのだから、その困難は趨勢としても歴史としても尚の事なのだ。歴史的に未曾有の、「誰の経験に唄うのか?唄えるのか?」ということの意味。それらは問われるに切迫している。そしてはからずも、それらにまつわる可能性を指して才能と呼ぶなら、彼女には余りある才能があるとやはり思う。独りで唄う人だって、自分の唄を聴きながら唄うのだ。それは未熟なテクノロジーにおいても達成される端的な出来事である。そしてこの出来事は唄うことと聴くことの関係の深さを何かしら示唆し続けるだろうと思う。唄の発生論(とりあえず進化論、系譜論ではない)は、都度都度の経験の発生論になる。
経験の総体の話なら、そのまま広義のコミュニケーション一般(意思疎通だけでなくて、それらを含むコスモロジー)の話にもなる。だから、今の松浦亜弥という経験だし彼女の唄というそれだし、「きずな」という曲のそれで、すべてとのコミュニケーションでもある。そして、経験として、コミュニケーションとして、こういう風に今の僕は反応する。