dohhh upにbuono
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第3弾。ももちのアヒルシルエットプリプリや!嗣永家のアヒルは集合!と言ったらももちだけがやって来た!愛理さん半音下げてブルージーだったりする。パワーポップというかパンキッシュというか一連のシングルシーケンスの一貫。サビ終わりのメロディ、終止音が面白かったり。
 
あややの新曲はタイアップ。
一般に歌詞の効用は僕の知るところでない。唄とそこに乗っかる歌詞の関係が自明だとは絶対思わない。これは僕だけの問題なのかもしれない。わからない。自意識か。
唄っている松浦亜弥が好きだ。それは確実なのだがそれが単なる全肯定に過ぎないなら、もうどこへもいけなくなるだろう。彼女に何を求めるか。物語≒歴史はどんな形であれ去来するもの。そこから自分で何を紡げるか。ともあれ知と情というような壮大な二元論を解決するにはまだまだ早い。
ただ上っ面だけの消費者の権利なんていらないので、アーティストとアイドルのジャーナルな区分、便宜の名を借りた惰性体はうんこだ、と言わせてくれ。うんことわかりながら咀嚼、回し食いするのも顎がほとほと疲れる。日常化したら死んでしまう概念はあるし、それを知ってわざと殺している。欺瞞はいつも逃げ道を用意している。
 
自意識批判の言説が批判するのは単なる「私」の特権性ではなく、この「私」というように指示された「私」だろう。自意識過剰だな、お前は特別ではない、と、封殺しようとする。とんでもない。特別でない「私」などあるものか。そして実にその特別さが鬱陶しいのだ。私は私で、あなたはあなたで、松浦亜弥松浦亜弥であることが脅威なのである。すべての私が特別であるという事態の脅威。誰かの自意識を嫌う、そんな己の意識を自意識化するプロセスすらが鬱陶しい。
 
昨日のテレビ、娘。のディズニーはピンポイントでもよかった。一個の作品だった。NHKのクオリティ発揮かしら。番組を最後まで見なかったけど、総合的にもバランスよかったんだと思う。必然性という特別な合理性を感じると興奮してしまう。モンタージュの演出もあったり。あと、たかしゃい愛さるがちょっと体勢崩してたり、亀ちゃんのパートをきちんと聴ける喜びとか、短いなりに印象深いものを残してくれた。ありがとうありがとう。