何かある対象をわからないと言って「怒る」人たちが僕にはわからないプンスカプン!あまつさえ、その対象の価値を貶めたり、否定したりする場合があって、もう何がなんだか、だ。
「わからない」ことと「怒る」という感情、態度などが何にしろ結びつくとすれば、それは「わからない」という事態自体に対しての怒り、わからない自分の不甲斐なさに対するそれ、などなどであるとはひとまず判断できるが、当の「わからない」対象に対して「怒り」をはっきりと示すという場合はどうだろう、何故その「わからない」対象に対して「怒り」を示すのか?ということがどうにも判断しようがない、わからないので、そこでそういった怒りへの反応としては同じようにみだりに怒ったりせず、その「怒り」の理由をたずねてみる価値もまたあろうというものである。
しかしまず「わかる」「わからない」ということはそんなに単純ではない、ということに思いをいたすなら、一つヒントになりそうなのは、わからないと怒る人たちは「わかる」という状態、事態を、量的にそして加えて「減点法」で考えてるのではないか、という思いつきである。つまり彼らにとっては、「わかる」とはまったく自明で当然の前提的事態であり、そこから「わからない」へと減点操作していくのでは、という想像だ*1
もう一つ類似的なヒントは、「ある対象を簡単な言葉でわかりやすく説明できる人が、その対象についてわかっている人の特徴である」というような言い回しで、これがどれぐらいの範囲で流布しているものかわかりかねるのだけれど、そこここで何度となく聞いたことがあって、同じ前提を見てとれる。やはりここでも「わかる」と「わからない」が連続的であるのではないか?ということ。
「わかる」「わからない」の連続性については実際現実的に機能する側面がある、と考える。いえばそれは100点満点のテストのようなやりとり、コミュニケーションだ。90点なら合格、80点でもまあOK、50点ならちょっと厳しい、といった具合。そこには規定のコードが、約束が、ルールがあって、いかにそれに忠実であるかがその特定のコミュニケーションに関わる者にとっての一つの強力な目安、価値である。これらはとても現実的であり、社会においては原則的であったり、制度的であったりする。大げさに言っていくと、一つの合理性であり、一つの近代性ということにまで敷衍拡張できるかもしれない。
その上で、まったく別の「わかる」「わからない」の側面があると仮定しよう。それはこういうものだ。連続性よりは非連続性であり、量的であるよりは質的である、そんな「わかる」と「わからない」の関係である。ここにおいては「わかる」と「わからない」はまったく別物であり、いくら分析を積み重ねようと「わからない」場合は「わからない」。対義語でないし反意語でもないような関係。このような「わかる」「わからない」はありうるだろうか?僕はあると考える。そしてこの考えはコミュニケーションの非対称性へとつながる。
さて、話としてはここまでで、できれば何かある対象がわからない時は怒るより前に何がどうわからないのかを伝えて欲しい、それは前提とされていると想像するところの連続性にも則っているだろうし、という他愛のない提案めいたものに落着するだろう。といってもとりわけ僕はそこに純粋に期待をするものではない。「わかる」も「わからない」もとても芳醇な含みを持つ概念だし、何より先に書いたところのコミュニケーションの非対称性という問題があるからだ。

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20を説明するとする。
20=4+4+4+4+4
または
20=4×5
20=3×7−1
といった具合にいくらでも記述できるだろう。これは対称性を前提とした世界であると考えられる。20の説明として、4×5ならわからない人も、4+4+4+4+4ならわかるかもしれない。逆もまたありうる。それらの説明は説明が正しい限りで(この例では数字や算術の記号が普遍性のとても高いものであるから「正しい」のポイントがぼやけてしまうが)説明として同じであると扱われるわけだ。しかし、本当にそうであるか?それだけであるか?等式のそれぞれの表現は、ただ表現の仕方が「違う」だけなのか?それは対称性を前提としている。

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「理解はできるが了解はできない」「了解はできないけれど、理解はできる」といった言い回しは、レトリカルで、あやとしてはありきたりの惰性的なものかもしれないが、「わかる」「わからない」という地平の芳醇を示しはしないだろうか。「わかる」「わからない」の多義性、多様性。
この詩はわかるけど、この詩はわからない。音楽は、絵は、その他その他。「わかる」「わからない」は価値論の領域とも結ばれるのではないか?

*1:この場合の「わかる」という前提的事態は、「わかる」にまつわる個人的な経験に関するものであるか、一般的な「わかる」経験に関するものであるか、またはまったく異なる次元、性格など他の要因、おおむね心理的要因に転化できるものであるかといったことについては特に言及しない