続けてみるし終わらない

http://d.hatena.ne.jp/k11/20080314
小田さんに継いでいただいた。ありがとうございます。

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ある作品対象の理解は一般に何を前提としていると考えられるか。それは作品を媒介にした作者と受け手のコミュニケーションか。例えば、作品が作者のメッセージであるということは、当然ある。それは個人の強烈なメッセージから、作為的な国家的プロパガンダ、時代の高揚の声、民族の虐げられた声などなど、ある作り手であるところの主体の主張の反映である、と。また逆の観点から言うに、それは構造の産物だ。作品はとりもなおさず構造の産物である。それはある制度的な制限、条件において作られるものだ。時代、場所の状況、生産構造などの唯物的条件、主義、体制のあり方などにそれらはよくもわるくも規定される。無意識的な構造、構造的な無意識にがんじがらめであるところの作品。
これはもとより作者、作品に限らない。受け手であるところの自分はどうなのか、といえばやはり上記のことがあてはまるのじゃないか。つまり主体的な受け手としての自分が作品を理解すること、ある価値観に基づいて理解すること、ある感性的条件において作品を理解すること、などなど。そして上記同様にまた別の側面においては、受け手としての自分が何によって規定されているのか、つまり理解の構造的な側面というものがあるだろう。ここにおいては、どちらがいいとか悪いとかなどはない、単なる受け手としての自分の条件のおおまかな記述にすぎない。

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作品の解釈、分析、価値判断、理解、好悪などの問題。
例えば、「好き/嫌い」と「よい/わるい」は違う、ってのは少しレトリカルに響くかもしれないけれど、そういった諸問題を考えるとしたら、やっぱり手ごろなヒントになるんじゃなかろうか。まず「好き/嫌い」だけでも、単純なものじゃなく驚くほどの内容を秘めてそうだ。それは認知心理学の次元とかだったり、大まかにコミュニケーションの次元に属する話だったりなどと、想像できるが、きっともっとある。主に否定的な文言において「生理的に〜」という語法が一時流行ったように思うけど、これは「生理」なんていいながらも、その実かなりコミュニケーションの領域に浸かってる印象。つまり、その言葉を使うことでコミュニケーションがある特定の方向でスムーズにいく、共有されるといった風で、まずはそういう風に機能しさえすればいい、という捉え方である。ここでは別に本当に「生理」、人間の生理の何かしら本質に根ざすものがあるかどうかはとりあえずプライオリティの高い問題ではないだろうし、とりわけそういうものに根ざす必要も無い、一般にはこれはコミュニケーションにおける言葉使用全般の問題、いえば全ての言葉に当てはまりうる問題であるとさえいえるだろう。ここにおいて前提にあるのは、コミュニケーションにおける言葉のつかみどころのない流動的な性格である。あるいはコミュニケーション自体のそれである。
「好き/嫌い」だけで別にいいじゃないか、という話は勿論あるだろうけれども、私はその判断に関してはここでもどこでも触れる必要はないと考えている。ただ「好き/嫌い」は、あえて大げさに言うに、その佇まいがゆえ、全くシンプルなものではない。