偽私小説「夜明け前が一番暗いことのソース」

それは暖気の上昇から始まる対流でした。部屋はとても寒いのですが、一般に寒さには質差があるのです。寒気のグラデーション、階層毎に鳴る響く音が異なっている、そんな様子を想像してください。床に程近いところから遠慮がちに層をなじませなじませねぶり昇るハロゲンのエネルギーは、そこここでシャガールブルーの摩擦抵抗の火花を散らして、おおまかには拡散気味でありながらも確実に上昇を重ねます。そしてそんな対流現象に反射するイメージ群こそがこの部屋の内実です。
ノックがあったので「亀井さんお入り」と、大量生産→消費が疲れた夢、コピーの産物であるところの出来合いドアー越しに声をかけてみると、それ自体には特別何の感興も持たないかのように寒暖の対流を適当に開いて滑り込んできた彼女でした。その黒目は漆のように静かな爛々を矛盾せず含み佇ませ、そのつと吊られた口角は絶えずうっすらと微笑みをたたえるかのようで、複雑に蒼い成層圏高天原で見られる地平線のような茫々たる大気の歪曲を描きますけれど、否応も無く目立つこれらは彼女の特徴の一にしか過ぎません。何より彼女は女の子の質量でした。空間を時間を、そしてそれらを合計したところの光をギリギリ歪ませない心優しい蛋白質、細胞結晶体です。「エコですよ」と彼女は何かにつけ言いますが、その意見の正しさはまずもって彼女の優しい存在自体により演繹証明されるのです。
「寒いですか。冷える朝です」と言いながら、血潮の逃げたあとの冷え縮こまった手にはりついてきたティーカップをカタカタと置くものですから、ついつい「亀井さんはいつもグースカですが、こんなどうしようもなく寒い日には活動せざるをえませんか」とまぜかえしましたら、「グースカはいつも本当ですが、うるさいです」といい、そしてそこで初めて頬などの皮膚に赤みをさしてみせる、そんな彼女は何かしら当事者である本人もその内容を知らないブラックボックスの儀式をゆらりと通過し終えたかのようで、ことさら峻厳であります。
抵抗を貫いた電気の結末がこのハロゲンで、そこから起こる対流であるということは、先ほどものしましたところの記述と重なるところがありますが、この部屋内の現象、部屋という現象の説明をするにあたり、故あって対流が二重になってしまうという不可思議な状態を記しそびれてはなりません。活発なハロゲンの熱対流の勢いが気まぐれにも照らし出してくれるのは、同時にまるで反比例図を意識するかのように、どうしようもなくその運動を緩めていくもう一つの対流でした。その対流におきましては、現象として映し出されるところの物物がそれぞれにしその存在を薄めていき、つまるところ二つの対流による現象の生起と現象の失われの相殺劇というわけなのですが、こと後者の対流そして現象に関しましては、それはいつまでも決定的でなく、喫水線への漸近線をたどり続けるような、限りの無い永遠の停止をその主題とするものだということを付記せねばならないのでした。
「お別れです」私は他人の体の感覚の内に告げました。亀井さんは表情を一つも変えませんでした。私もきっとそうだったと思います。鏡のような二人とも、かえってそのことに驚いたくらいで、間が持たないといえばそうでもあり、そしてやにわにどうにも恥ずかしくなってきて、こんな時に限ってやけに冴えている空気空間の振動伝達性も憎からず、ひとしきり微笑みを交わしあうことになりました。
「何故お別れなのですか」
私は考えるフリを少しもせずに「わかりません。何故でもお別れなのです」と言います。
「そうですか。でも」
でも、あなたが好きな唄にこうあるではないですか、と彼女は継ぎました。
「絶え間なく笑顔に満ちて、なんとなく幸せな日々」
「愛のビッグバンドですね」
「いいテーマです。そして、やはり、なんとなくでいいのじゃないですか」私は答えに窮しましたが、また同時に別のことを考えてもいました。「なんとなくじゃだめですか」
何故物事は終わってしまうのだろう。その時間軸前後の世界を全く別の異質のものとしてしまう了解がふいに現れるのだ。何が起きたのかなんてわかりはしない。了解とはそういうものだ。とても静かで、そしてとても静かなだけにかえって凶悪な暴力性を秘めてありありと発揮する。終わったと目される喪失の時間・ポイントの後で、ただただ途方にくれて、終わる前のことを考えるもうまくいきはしないのだ。これは内的感情の、気持ちや精神のレベルの話だけなのでは決してない。それらを包み込む事象、事態の総体の話なのだ。そしてそれが私として、私の責任として決定的に集約されるのである。このような馬鹿げた言い分が身勝手と映るぐらいならまだまだ安穏なものだ。理由や生活を引きちぎる、理性神話を粉々にする、終わり。
終わりというものに慣れることはない。ひょっとしたら、終わりの中を行き続ける、引き伸ばし続けることは実際可能なのではないだろうか。そういうロジックは確かにあるし、少なくない有効性を持つものでもあるといっていいだろう。何となればそれは生活全般の謂いだからだ。しかし「終わりははじまり」だ。はじまりの暴力でもある。終わるからはじまる。はじまるから終わる。どうしようもなくはじまりがあるというそのことがそういった悪びれれば「延命」のロジックを不能者にしてしまうだろう。そして繰り返してそれが私の責任なのである。
しかし具体的に責任をとるということは同語反復的に、まず何らかの具体的行為である。つまり責任は、現実的に責任を果たすといった志向を持つ動き、働きとして表されることがおよそ規範一般において期待されるだろうということである。理念的に言えば、他の誰でもないこの私自身が私の責任である、そういう存在であるということであり、それはどんな不条理をも回避せず、私として受け止めざるを得ない、逃れられない、その上で責任的に受け止めるところの存在論的な倫理のありかたであるが、そこには個と普遍における逆説的関係を裏付ける、倫理の乖離が必然的にたち現れることになる・・・
倫理をたてにした存在自体への恨み言のようにもみえる妄念という論理からふと顔を洗って、彼女の漆のドロップの瞳を見ますと、出来するのは恐るべき精神の伝染力です。「あなたは今とても怖い顔をしていました」亀井さんは泣き出しました。
対流はいよいよ停止の、熱死滅の状態に陥っています。埃や水蒸気やとぼけて顔を出した宇宙デブリなどがぽとりぽとりと二人の五体のあちこちに遠慮なく降り積もり費えていくのを感じます。その数を数えたり、名前を付けて体系化、歴史化することはまた新しい生活で物語の機能ですが、私はもうとっくに選んだのでした。選んだと言い切るエゴイズムに特殊な才能はいりません。それは時空とのアプリオリな関係に過ぎないのですから。
「踊りませんか」
全く踊れる身体的なタイプではない私なのですけれども、亀井さんを一生懸命にいざなってみました。すっかり固定気味の暖気と寒気を新たに身にまとって、対流現象にさあさあまた分子運動せよとさりげなくつっついてほのめかす愉快があります。亀井さんもそんなユーモアを俊敏に悟って、一度少しだけいつものケラケラを歯の隙間から覗かせてくれました。だってまずあまりにも突拍子のない出来事だったのですから。私の至らない思い付きはきっと動作としては、遠くから見ても近くから見ても不細工なものだったのではないでしょうか。それら総運動に使用した空間の体積を決して測らないでください。でも、そのようなどこかの誰かはいわんや最も代表的な大いなるものによる観察の対象にじくじくとどまるのではなくて、あくまで自ずからひたすら観察する、少しくしたたかな私でそして私たちであったというのが実のところなのです。回転の遠心力にすっかり追いつけないシャガールブルーの火花の散り行くのに、彼女の涙が振りかかったりしながら、そのほのめいた蒸留酒のような気化をこぼさず捕捉しながら、黒く湿りきった睫の重みを哀れみながら、瞳の漆の鈍さとガラス体の白の残像混交のとりとめない脱色を願いながら、頬と口角を結ぶ柔らかい稜線のさんざめくような動揺にリズムを吸収させながら、私は「愛のビッグバンド」をハミングするのです。
いつかの後藤さんが泣くのを、我慢しながらそれでもやはり泣いてしまうのを、ぼんやり思い出しました。誰かが泣いているのを見ると私も泣きたくなります。女の子が泣くのを見るのはとても辛い。そして同時にそれは実は心待ちの対象であり、その実現はとても嬉しいものなのではないだろうか。泣くのが女の子、なのでは?私は女の子を力強く差別しています。
やはりポツポツと涙を定時に落とし続けている彼女を、依然まったく無視するかのようにすげなくそして露悪に陽気をきめきめハミングトーンを調整して、全くぎこちないコリオリの回転でπの計算不可能を身体化していると、いつか彼女が彼女たちにダブるように見えました。女の子たちのイメージはいつまでも反復し続けていて、永劫を抜け切ることがきっとないのでしょう。亀井さんは後藤さんではないし、後藤さんは亀井さんでありません。それはまるで明らかなのですが、イメージの反復は少し照れながらそれらの差異を無みにしてしまおうとするかのような企みをじっと忍んで持っているようなのです。女の子は・反復します。私はそのことに何度も気づいたし、気づくし、気づき続けるのです。さあ、昂じたりとおさまったりとで不定期に律動する彼女の身体の情動のわななきを、円舞のリズムではぐらかしごまかしてしまう小狡さよ、反復の前でその息の根を止めよ。
音楽は鳴っていました。今もそうです、きっと鳴っています。ダンスは終わりにしましょう。付き合ってくれてありがとう。あなたは泣いて、泣いていてください。でもいつかきっと自分で涙をぬぐってください。あなたはとても美しいです。反復の女の子ですから。反復の女の子ですから。
「また会えますか」
「不思議なことです。会うということは本当に不思議なことですね。あなたが好きです」
「さようなら」
私は微かに息を吹き返したかのように思える対流の中を現象的に消えそうになりながら、否、積極的に消えるように、消えてしまえばいいのにとうそぶきもしながら、ドアーを出ました。もつれるように出ましたら、そこでは春先まであと少しの星図配置の行く行く廊下の床に映るのが飛び込んでくるばかりなのです。とある有名な銀河が黄道に対し1度右に傾くかどうか、そんな寸暇の出来事でした。