僕がハロプロに求めているものはとにかく独善的なものです。その上で単純に伝達表現がとにかく下手糞ってのもあるし、そのままただただこんな人間であるということもある。ネットの方がこれでもいい人です。ななぷるさんにはうまく伝えられなくてごめんなさい、と思います。コメント欄で失礼なことしたなと今になって判断し反省しております。重ねてごめんなさい。

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以下は上記に直接的ではないですが。
まず芸能界のフローというか、成功不成功だったりの芸能界の内的価値とでもいうのかな、そういう価値動向一般にほぼ全く興味がないです。それはハロプロについても同じで、何をしたら売れるとか売れないとかよくわからないし(それでも一時期はこれはこうがいいとかそれなりに強い気持ちとしてあったのですが)、究極的にはどうでもいい。で、僕は、今のハロプロをつまんないなどという否定的な意見をたくさん摂取してしまってるきらいが自身においてあると判断しています。それを一時的な傾向性として判断する留保に何か意味があるかどうかわからないし、いえば僕の観測範囲の狭さとか、偏りとかもあるわけですが、どちらにしてもまあそれらも判断要素の一つ以上のものではないだろう。あと否定的な見解は眼に入りやすいとかもあるかな。更にはマスメディア≒芸能界といったそれ自体はアナクロであるが、やはり今も尚力を持つものの趨勢などもマクロとしてあるだろうけれど・・・と枚挙にいとまなしですね。
翻ってとにかくそういう皆「つまんない」と感じてるというのを僕は勝手に感じて受け取ってるし、構図として全く同じように皆「つまんない」ということを皆感じてるのではないか共有しているのではないかと想像したりする。その個々の内的真実、心のうちについてはわかるべくもないし、ひとまず対象化する必要もないだろうけれど、表現された「つまんない」が数多く堆積していくということには強力な意味があると感じる。否定的見解に関しては、いつからかの恐慌的なハロプロドミノ連鎖だったりが外的でおよそ誰にとっても妥当な要素としてあったりで、まあそれは説明としてわかりやすい強力な根拠となりうるに過ぎないものでしょうけれども、何より「今何が楽しいんだ?そして何が楽しかったんだ?ハロプロ」というような最も根本的であるはずなのに、だんだんぼんやりとしていってしまう「楽しさ」の対象の、喪失であり拡散であり先鋭化であるところの、ハロプロ内的な問題がある、ということに話は尽きるのではないでしょうか。上記の「喪失」「拡散」「先鋭化」などは表現だけれど、どれも大きな事象におけるパターン認識の一つ一つとして有効であると考えます。一方でハロプロ内的にベリーズ℃-uteの勢いはまた新たに確実にあって、それはそれとしておおーっなどと感じます。僕は多分もうそれらには追いつけないんだろうなあって思いますけれど、それは別の話。
さてさて、現場と在宅って二項はもともと概念的に強固なものとしてあったでしょうが(何故ならまず端的に行動形態としてわかりやすいから)、その意味内容、二項対比はまったく変容していってる。定点的には、在宅の基盤とするところがやせ細ってしまったことで、ここには色んな因果関係があるのだと思いますが、分析は面倒です。ただ大きく一つはよりマクロな経済関係の推移が、誤魔化しの利かない露さを持ってきたからだと思う。ハロプロの経営モデルがばれてきたとでも言い換えられるだろうか。この場合本当にばれてる、のではなくて、ばれてると思われている、そういう風に共有されていることが問題だと思うのです。極端な話本当のところは全くわからないし、それでいいわけで。そこにおいて「搾取」などのおっかない概念なども飛び出してくるのではないですか。「搾取」て!それは程度問題ってやつだと思います。人事だなあ。
続けて「バレ」というものの脅威はネット時代に顕著だろうけれど、もともと芸能界というかTV的なもの自体にも、芸能誌?的な視線、メタ・スキャンダラスとでもいうような価値が駆動しているわけで。つまり相対的にうまくそういうのを回せてた時期ってのがあったと想定しているのですが。それで、「エンターテインメント」の「バレ」の脅威も大きく時代の変遷によってかその内実に変化を持つだろうけれど、何より自分の首を絞めすぎていて脅威がクリティカルにクリティカルにいってる、というのが印象として強くあって、だとすればその享受者においてもそれにあわせてリテラシー閾値を調整しなければならない事情が出てくる。今までみたいな楽しみ方では楽しめなくなる。じゃあどうするってのはとりあえず置いておくとしても、若者のテレビ離れなんて言い方がどれだけ実際的内容を持つかの命脈が、実は「バレ・リテラシー」「エンターテインメント・リテラシー」にあるとしたら、大きな物語的なテレビとそれが送る神話の終焉が即物的に自体として感受の対象にならないとしても、エンターテインメントどうするの?死んじゃうよー、って怖さがリアルに迫ってくるのでは、と飛躍しちゃうわけです。見世物小屋の時代には決して戻れないわけですから。marco11さんが宗教的な対象としての「テレビ」という側面を仰っててなるほどなあなんて思ったのですが、それは実際的にエンターテインメントの興隆をどうにかこうにかできるだろうか、などと考えたところで、別にエンターテインメントの生死自体は僕にとってそれほど死活的ではないじゃないかと気づいた。テレビ君さようなら、こんにちは新しいテクノロジー、という意味不明な余裕がある。余裕はきっといけませんね。
ところで話戻して、在宅の基盤とするところの内実ってのが、結構厄介なもので、あまり実体的な何かではないだろうなあ、と。幸運なタイミングとしてのネットの興隆ネット文化のそれとの関連、そしてそこに花咲いたネットハロヲタ文化とでも呼べるようなもの、などとしか言いようがない。それは何より自律的なものとしてあった。であるから本当は何もかもシンプルに比較推量なんてできないはずなのですね。そんな中、ハロプロの面白さに関しての、メディア露出の減少とか、大きく流行の一過性とかお定まりの因果説明ってやはりきっと在宅ヲタ一般の誰にもどこか納得いかないんじゃないかと思うのだけれどどうだろう。それ自体で釈然としないっていう在宅ヲタ心はあるのではないだろうか。これは在宅ヲタ心の説明です。ついでに、在宅含めヲタ一般が言うどちらかといえば外的な「一般人」ほど当てにならないものはないと思います。少なからず強烈なヲタバイアスによって必然的な見誤りが発生するだろうから。とここまで書いて、ああすっかり自分も狼脳、狼フィルターにかかってるんだろうなって反省しました。
さて、大きな意味でフリーライダーとしての在宅、つまり僕ですが、実に勝手にすごく負い目を感じています。極めてどうでもいい告白だが。フリーライダーだから当然だろうとか、何故負い目?とかいう意見も想定できるけれど、それはそれとして。厳密に言えば、表面的な経済活動として微々たるものであるとはいえフリーでは無いのですけれども、結局突き詰めればもうハロプロに関与するなよということになるのではと考えている。何となれば、アンチ的に作用するという加害加虐意識その過剰はともかくとしても、実際的に無意識的構造的であるにせよ、そのような作用の一部として働くことは辛いからです。つまりつきつめれば、お前は何様なのか、という話である。まあ例えばこういうのを公共性、ネットにおけるそれとして考えて回収することは可能だろうけれど、おおむねこれはよい自意識過剰の一例、典型的なそれですね。茶化さないとシリアスになりすぎます、すまん。ハロプロを、娘。をみんなをずっと好きでいいですか?なんて訊いちゃう口に世界中の直腸から生まれたての糞便を詰めこみたいのだが。いやそんなことは糞便くわえるをよしとしても訊ねなんてしません。これほんとは前置きだぜ。長すぎる。皆寝てる。
この前置きを前提として、それで、結局ハロプロどうだったらいいのよ楽しいのよ、という話をしようと思ったのですが、そんなのはもとより僕に気軽に展開できるわけもなく、今だってつまんないつまんないと不満言いながらも、別に皆楽しんでるじゃん、僕もまあそれなりに楽しんでると言えば楽しんでるしという話もあり、これが思考停止なのかもしれないのだけれど、今はとりあえず。