tumblr、無断転載

・ウェブデータにしている事実
・道徳など規範、その協約性、実効性に期待しすぎではないか?ということ

の2点。勿論、転載して欲しくない、という気持ち、意思は理解できなくない。その理由がどんなものであっても、実際それは嫌だと言われたら、じゃあ転載やめます、となり「うる」。その対応は、規範としての道徳、もっとぼんやりとした道徳感情、心理に基づくものかもしれないし、また別に規範としての法による制裁処罰などを鑑みてのことかもしれない。ただ当然ウェブデータというものをウェブデータとして扱うこと自体は、どんな諸規範とも全く関係がない、関係しようがないのだから、最終的には事態の落着は運のようなものに左右されることとなる。無断だろうが有断だろうがその次元では関係がない。なので、個々の事例、個々の対応に尽きるということ。
これは返す刀でフェアユースクリエイティブコモンズをも無効にしうるのだと思うと心が痛むし、実際ギリギリで既存の権利とウェブテクノロジーなどの便宜との折衝を図ってこられた方々には申し訳ない気持ちしかない。と言うだけだと、単なるエクスキューズに陥るからもう少し。
まずもって何かを盗んでる、悪いことをしている意識なんて全くないので、道徳心も何も痛まない。泥棒とか万引きとか言われてもぴんと来ない。これは単に個人の問題かもしれない。私がウェブ的振る舞いに慣れてしまっただけということかもしれない。開き直っているわけでもないのだが。ただ繰り返して、個別の状況において嫌だと言われたら、コミュニケートされたら、やはり、心が動くことになる。ところで、突飛になるけど、そこらの青果店でバナナなどを盗むのは嫌だ。何故か。盗まないから盗まないなど、理由はいくらでもつけられるし、この「何故」は問われるべきでないとも言い得る「何故」である、と言いたいのだが。ある条件化ではまったく問いにならない約束における「何故」の不可能。翻って、ウェブの次元、対象としてのウェブデータにおいてはどうか。規範的なものが何か支配的なものとして約束されているのだろうか。無論、既存の規範、ウェブ以外で培った諸規範を人々はウェブ上で応用し、その営為を繰り返しうるし、実際そうしている。しかしそれら諸規範は現実的には量的に有効でしかない。規範は、その協約性や実効性においては量的であり、ウェブには質的に関与できないのではないか。ウェブデータの操作は根本的に技術、テクノロジーの問題だ。なので規範のうちに起こるかのような問題も技術的な解決が本当だし、それしかありえないだろう。これは無断リンク問題などとも関係している。でも、だから、無断転載してもいい、という話になるわけではない。もし個々の状況において当事者が応対することになるのであれば、そこにはコミュニケーションが発生しうるからだ。そしてそれによって何らかの解決がみられるかもしれない。諸規範が事後的に作用し得たということである。以上は一つの唯物論的な認識によるところの意見だ。ウェブの世界はこれからもきっとどんどん広くなるし、変わっていく。そこにおいて継続的にあるいは普遍的に有効な規範、ルールというものが成立しうるのかどうか、可能だとすれば、それは一貫したウェブテクノロジーに依拠したものとして顕現するのではないか。そこにどのように有機的に人間は関わっていくことになるのか。例えばテクノロジーの倫理問題として。
「何故tumblrするのか」という含みのある問いをそのまま返すなら、それは「何故作品をウェブデータにするのか」の答えと同じだ、と応えることになる。何故私たちはウェブ活動するのか?