大丈夫、音楽なんてなくなったって確実に生きていけます。「いい音楽が残る/残った音楽がいい音楽」。全ての音楽がドキュメントテクノロジーによって残る可能性が出てきた今、その中で音楽をあえて残さないという方法も考えてしかるべきでしょう。それは音楽教の特定の一派の神秘主義的要請に尽きるかもしれないけれど。
全てが残るということは途方もないカタストロフを引き起こすのでは?無数の価値のインデックスカタログにおいて我々は選べなくなる。なので、誰か権威が選んでくださいと言ってみたり、もう面倒なので選びません、音楽なんて聴きません、と言ってみたりします。まぁそれら極端のどこか間でバランスを取る事ができればいいのではないでしょうか。音楽を聴く事=音楽を価値付ける事が、音楽を作る事と同じ程度の作業になるのなら、それは何だかぐったり疲れるので、耳をふさぎたくなってもおかしくないのではなかろうか。そうだ、BGMや自然音、無音響室内録音のCDを買いましょう。もしくは、自分の血流の音を聴いて安らぐとか。
ドキュメントテクノロジーは出逢いテクノロジーでもあります。他の誰も知らない、あなただけが知っている音楽に出逢える可能性が十分ある。たくさんの人にこの音楽いいよ!って大声で伝えるのはしんどくても、こっそりこの音楽いいなあって誰に聞こえるか聞こえないかわからないようなつぶやき(このつぶやき自体も誰かと出逢う可能性があるのですが)をもらすことは、それほど疲れない。フラットな世界でも、質量の問題はやはり不可避的にあるのでしょうが、それでも。できれば何かを選ぶのもそこそこで、価値付けるのもそこそこで、と、そこそこのサバイバル術。
ところで、音楽を完全にファッション化する、モード化する試みによって、大きい音楽業界をその規模を問わずに生かしていくという方法について。ステータスとしての音楽、交際音楽などの側面を前面に押し出します。惜しむらくは、音楽は直接的なステータスとしてなかなか視覚的に記号化されないこと。なので、その辺りをどうするかということが決定的になりそうですが、発想の方向が間違っている気もします。加えるに、生き死にで言うならば、音楽業界が完全に死ぬことは、マクロの経済的観点から見てよくないのでは?と懸念します。そこに流れていたお金が最終的にはそっくりそのまま別のところに流れるという風になればいいのですが、そしてまあ行く行くはそうなるのでしょうが、その過渡期が我々にとって現実的であるでしょうから。
ゆるやかな価値共同体としての音楽業界という側面もある。外向けの価値提示と内向けの価値保護、など。その点で、業界の死活はどうだろう、音楽の生き死にには関係ないとしても、ある程度の効果を把持しえている、といっていいだろうか。
音楽のいいところは、ヘッドホンでも聴けるけれど、巨大なモニタースピーカーでも聴けるってところですかね。そして大丈夫、音楽なんてなくなったって確実に生きていけます。なくなっても生きていけるところもとてもいいですね。