どうしても生権力、生政治、生制度からは逃れられないとして、それでも逃れようとあがくわけだけど。「狼」で繰り広げられる一ハロヲタ活動としてのそれらの現れはダイナミズムを失って、ミニマルミュージックみたいになった。内容の反復による、形式化への漸近的接近。ボットがやっていて、芸術的ですらある。
「推し」もハロヲタゲームの中で上記のように振舞う概念だ。でも、概念はあまねく両義的なので、実に「推し」概念に身を委ねること、寄りかかることで、意識の有無を問わず、当の概念を破壊してしまうこともできる(パロディ)。「DD」は自体としては別にラディカルでないし、そう要請されているわけでもないだろうが、ゲームにおける内在的な排除項として陰影的に存在せしめられる。ヲタゲーム内でハロプロアンチを標榜することももうラディカルでないだろう。ハロプロアンチは形式化して実際的な存在意義が無くなる。ハロヲタ一般が外部的なものとして措呈する「一般人」一般は、広義のヲタ一般の宿命的な見誤りによって(対外項、排他項、概念布置の関係)、夢の存在、輪郭が茫々とした存在とならざるを得ない。極論すれば、「一般人」一般は対ヲタ的な存在としては「ない」、あくまで仮想(敵)的「一般人」一般である。
一番大事なのは、ヲタ実存はどんな夢を見るか?ということになるのだろうか?だとすれば、以上は単なる言葉遊びでよいし、つまらない言葉遊びでよい。
メディアフォーカスは相対化していく。「マス」の分配再分配。それに比例して、あるいはシンクロして、お金が流動化するだろうか、というとそうでもないだろう。元からあるところに集まって、その質量が更に質量化を加速する、ブラックホール。それと関連的になるかどうか、皆が皆蜂の巣のような個室で安住するというのが、近未来の技術の解決になる。マトリックスの世界。数字の自己増殖は人類の手を離れて、解放と解散を促す。快楽的な滅び。これがポップミュージックである、という隠喩。唯物と実存が合致する未来像。

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ハロプロはサバイバルをかけて近代芸能になればいい。上記未来像への過渡期において、それは容易い事ではないだろう。でも易しかろうが難しかろうが、近代芸能の経済の仕組みについて、と、文化的鎖国(排他)、文化的伝統化、文化化・芸能化、歴史から飛び出る、あるいはスピードを落とすなど考えるべきことは山積み。2代目後藤真希襲名なんて、ポップで面白いと思うが。