「リアル」について、メモ(このメモにリアリティはあるか?)

いつ頃だったか、「リアル/リアリティ」、その欠乏、それらの回復などが大いに喧伝された記憶があるが。それらリアルキャンペーンをどんなに押し付けがましく感じても、概念は強迫的に反復するもので、ついに伝染してしまう。「リアル」になんて興味ないというポーズは伝染後のはなし。以下興味がある方は。

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本当、実在的、現実的、事実的、ノンフィクションなどといった言葉と、リアルという言葉の関係。ニュアンスの差異をだけ問題にするなら、決定的には定義的にどこまでもいけることになるだろう。ニュアンスは文脈(つまり、上記概念以外のもの全て)に依存する、と考えるのは一つ理屈として成立するからだ。これは役に立つかどうか、が度外視されている。およそ無限の試みであるから。想像してみるに、自分の辞書、誰かの辞書、およそ世の中の成員全ての辞書をつき合わせて、アカシックレコードよろしくの大総合辞書を作り上げる、そんな営為のイメージ。その上で、先に文脈といったこと、それから、ここには、パロール−ラング、共時−継時といったような強力な別のフレームを差し込むことができる、ということを考え合わせてみると、最終的にはその大総合辞書は毎時刷新されねばならない、ということになるわけだ。イメージの上にイメージを重ねるわけだが、何よりここに前提としてあるものが、「意味」の「現前性」(ソシュール丸山圭三郎)である。「意味」は「意味」として、確固たるものとしてあるのか、あるいは、確固たるものとして「意味」を考えることで、「意味」の本質をいいあてることができるのか。オグデン-リチャーズじゃないが、「意味」の「意味」は「意味」として即自的であるのか、と。それが、「意味」の「現前性」への問いかけ、懐疑ということになる。
まったく余談だけれども、きっと僕は厳密な意味における科学としての「構造主義」をきちんと押さえなければならないだろう。方法としての一般化された構造主義で、ソシュール構造主義的言語(科)学をまかなえるのか?これは発想としては逆転してるんじゃないか?
 

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違う方向。

あなたは「リアル」という言葉をどういう意味で使いますか?→あなたは「リアル」という言葉をどのように(いかなる場面で、いかなる時に、いかなる状況下で・・・)使いますか?

これらは両方とも質問として意味がないわけではない。二つに分けているのは、後者にウィトゲンシュタイン的な発想を見ているから、とでも言ってみるが。つまり、両者はポイントが決定的に異なる。→記号は適当でないかもしれない。
前者は、「あなたの辞書」について、当の「あなた」というポイントに最大のアクセントが置かれる。「誰かが」そのリアルという言葉を「どのように使う」のか、という関心、知りたい欲求がある、と考えてみることは、どうだろうか、無論日常的であるだろうが、例えば、議論における定義、議論というゲームにおけるより厳密であるべきだと考えられるような定義だとか、うって変わって、友だちに恋人に家族に、そのような言葉の使用をどのようにするのかと問う事、言うならば、本当にその言葉の意味を知りたいというよりは、他の動機がある、目的があるというような事態、総じて「あなた」に力点が置かれる事態を想像してみると、なるほどと合点がいくものではないか。
後者は、全く違ってコミュニケーション一般といったもの、その成立の事態についての問いであると考えられるが、いかんせん筆者の当座の理解不足から、説明するには心もとないものがある。
 

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リアル/リアリティを感じることが何がしか評価の、価値の、それも強力なそれとして君臨している、という事態について、考えてもいいかもしれない。評価のゲーム。そこにおいて、「リアル」は強力な意味を持つ。それ以上の意味はない、と。恐るべきは、「リアル」だということで評価することの意味自体だが(何故リアルが強力な意味を持つのか?)、それはしょうがないことだ。そういうルール、コードが通用する範囲、域が、ただ、ある。そこで頑張るか、脱出するかは別の大事な問題。あと、その範囲、域の広さを知ること、誰に通用するのかを考える事も無用ではあるまい。
 

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ところで、「信じる」というのは何らかの心の状態か?だとすると、宗教的な理由で踏み絵を踏まない、ということとそれは決定的に違う。踏み絵を踏まない「から」、あなたは何かを「信じている」ということは確かに出来るが、これは少なくとも心の状態の話ではない。踏み絵を踏まなくても、踏んでも、あなたは何かを「信じている」、と断じられ得るし、それ以上のこともそれ以下のことでもないのではないか?「信じる」と誰かが言う、それについて、それは「信じる」ではない、ということができるかどうか、という問題。自分の周りに空気があることを信じていますか?と尋ねられて、あなたは「信じる」と応えるかもしれない。その意味をどこから汲むか。自分の周りに酸素があるかどうかなんて、そんなことには普段関心がない、でも信じるかどうか、と言われれば、信じると言う。あるいは、この問いは徹底的につまらない、とあなたは撥ね付けるかもしれない。例えば、信じるかどうか、という問い方、この内容についてこの動詞「信じる」を用いる事はナンセンスである、言葉の誤用である、と。